はじめに

 本書は、タイトルが示す通り、山上敏子先生が東京大学大学院・臨床心理学コースの下山研究室の勉強会でお話をされた内容を再構成したものです。勉強会は、二〇〇三年、二〇〇四年、そして二〇〇五年に、いずれも二日間にわたって集中的に行われました。当時の私は、行動療法の基本をしっかり学びたいという気持ちが強く、お忙しい山上先生に無理にお願いをして東京に来ていただきました。
 私は、大学院時代はクライエント中心療法を学び、大学院を中退して現場に出た後は精神分析を本格的に学びました。しかし、常勤の心理職として勤務している中で、現象学的世界や内的世界と呼ばれる内面に焦点を当てるクライエント中心療法や精神分析では、現場の日常臨床で扱う問題に適切に対応できないという意識が強くなっていきました。多くのケースは、回避、引きこもり、性的逸脱、食行動異常などの行動.の問題でした。自傷行為や自殺未遂などの行動化も頻繁に見られました。統合失調症や気分障害については生活支援が活動の中心となっており、その点で日常行動や対人行動の調整が主となっていました。いずれのケースでも、自己の問題を内省し、内的世界を見直すというレベルではありませんでした。
 また、現場では、医師や看護師、あるいは事務職といった他種職と協働することが求められましたが、その際に共通のテーマとなったのが、行動.の改善でした。行動をしっかりと扱うことができなければ、他職種と協働できず、現場での仕事は思うようにできないということが、私の中で明確になってきました。そのような日常臨床の経験の中から、行動に介入し、クライエントの日常生活をつなぐ、あるいはつなぎ直していくことが私の臨床活動の主要な方法となっていました。
 十二年間、常勤心理職として働いた後に、大学の教員となりました。大学では、臨床経験を生かして、臨床現場で役立つ臨床心理学を教えたいと思いました。ところが、当時、巷に出回っていた臨床心理学の書籍は、内面や内的世界を扱うものばかりでした。そこで、諸外国の臨床心理学教育を調べてみると、行動療法や認知療法が主流となっていました。認知療法として認知の再構成をするにしても、最終的には行動の変容が目的となっていました。そこで、「行動療法を学ばなくては何も始まらない」と意を強くして、山上先生に教えを乞うたというわけです。
山上先生に来ていただいた当時の下山研究室は、メンバーの入れ替えの時期で、比較的若い世代が中心となっていました。そのようなこともあり、勉強会に参加したメンバーの多くは、まだ臨床経験の少ない、初心者でした。そのようなこともあり、先生には、行動療法の基本だけでなく、臨床の基本についてもお話をいただきました。先生の講義をお聞きした後に、若いメンバーが担当したケースを発表し、事例検討会を行い、先生にコメントをいただきました。そして、その後に再び、参加者の臨床経験や知識を踏まえた上でお話をしていただき、さらに夜は懇親会という、本当に贅沢な勉強会となっていました。
 勉強会でのお話の内容がとてもわかりやすく、しかも充実したものであったので、下山研究室だけに留めておくのはもったいないという思いがあり、当初より出版計画はありました。勉強会の記録はテープに収められており、それを参加メンバーで分担して逐語録として起こしました。 私が、その記録の全体を読み直し、読者の便を考えて講義の順番を入れ替えたり、紙幅の関係で一部は割愛したりするなどして全体を再構成し、文体を統一して書籍としての体裁を整えました。それを山上先生にご覧いただき、全体の構成や文体などに関してご意見をいただきました。 それに基づいて、再び私のほうで改定を進める作業を行いました。これを数回繰り返して、最終的に今回お届けする構成となりました。
 書籍として出版するまでには、比較的長い時間を要しました。この間、私のほうで、新たに臨床心理学コースを新設し、教育体制を整えるという、手間のかかる仕事が始まったため、集中して時間を取れなかったということが、その最大の原因でした。また、山上先生も、お勤めになられていた久留米大学を退職されたということなどもありました。そのような事情で、出版まで思いの他時間を要しました。ただ、それによって、むしろ本書は時宜を得た出版となったともいえます。これまで、日本の臨床心理学は、スクールカウンセラーに代表されるように教育領域を中心とし、内的世界に注目し、無意識の深層の分析を目的とする心理療法モデルを軸に発展してきました。ところが、近年に至り、医療領域における臨床心理学の活動の発展が強く期待されるようになり、医師や看護師、福祉職や行政職を含めた多職種で協働することが強く求められるようになっています。
 このような状況において、心理職がまさに本書で強調されている行動療法の基本を学ぶ時代が来ています。狭く下山研究室だけでなく、臨床心理学全体で山上先生、そして行動療法から臨床技術の基本を学ぶ時代になってきたわけです。さらにいえば、本書は、精神科臨床に代表されるメンタルヘルス領域において役立つ臨床ポイントをわかりやすくまとめたヒント集といえるものに仕上がっています。その点では、臨床心理士などの心理職に限らずに、メンタルヘルスの活動全般に関わる人々、専門職だけでなく、患者さんやその家族も含めて、できる限り多くの皆様に読んでいただきたい書物であると思っています。
 最後に、本書の作成に協力してくれた、当時の下山研究室のメンバーの名前を記して、感謝したいと思います。当時は、まだ修士課程や博士課程の学生であったメンバーも、今は臨床の最前線で心理職として活躍しています。私も含めて、山上先生との勉強会で育てていただいたメンバーです。石丸径一郎、榎本真理子、吉村麻奈美、瀬戸瑠夏、原田杏子、森田慎一郎、坂井一史、鈴木晶子、石津和子、林潤一郎。

二〇一〇年五月五日 下山晴彦