まえがき

 アメリカの行動療法学会に一人で参加した。あるポスター発表に興味を覚え,そばにいた発表者に質問してみた。発表者のアメリカ人は私の名前を知っていた。私がメーリングリストで書き込んだメッセージを通じてのことだった。彼女は私の書き込みを楽しみにしているという。10年ほど前に自分の書いたものを公開するホームページを作った。検索エンジンに掲載を依頼するなど人に広まるような努力はしたことがない。今では,インターネットで“強迫性障害”を検索すると,自分のHPが最初の方にでてくるようになった。自分がしたことで自分が注目されることはとても心地よい。それが予想もしないところで知られていることはとてもうれしい。このように感じるのは私だけではないのだろう。人は人に関心をもたれることを喜ぶのだ,逆にそうでなければ“人”らしくない,ということにしよう。私の仕事は,人が“人”らしくなることに貢献すること,そうすることで私も“人”らしくなれる,だから私は臨床の仕事をし,この本を書いているのだ,ということにしよう。
 一方,私はいままで注目されることを目指して仕事をした覚えはない。自分の仕事が人の関心を引きつけたことを喜ぶことと,それを目指して仕事することとは違う。注目されることはあくまで結果であって,それを目的として仕事をするようになったら私は今までの私とは違う私になってしまうだろう。私は自分の知識を実際の患者さんに使い,その知識が“あ,こんなところで役に立った,へー”という体験が楽しく,その経験を書き残しているうちに今回の執筆につながった。私は自分の知的な興味を広げ,かき立てることを目標にしたい。
 一方,本は公共物である。私の恩師や今の上司,部下,患者さんなどがこの本を念入りに読むことがあるだろう。この人たちには,原井は自分の経験した専門的知識・技術を人に伝えることを目的として本を書いた,と思ってほしい。自分の好き勝手を書き散らしたと思われたくないのである。書いたこと一つ一つのどこに実証的根拠があり,どこにはないか,明示するようにしたい。このようにすることを説明責任を果たす,ということにし,これも私の目標にしよう。
 私は注目されることが嫌だと感じることもある。次のような問い合わせがあった時だ。「原井のサイトを見た。○○という技法に関心がある。自分もやりたい,教えてくれ。」私が「○○技法はどんな患者に使うのですか?」と尋ねると,「誰に使うかは後から考える,病気や患者のことはよくわからない。技法を教えてくれ」。嫌な気持ちになる。こうした態度は“セラピー崇拝”であり,なんのために“セラピー”を行っているのかを見失っている,と感じる。理由を一つあげることができる。どのように関心をむけられ,どのように説明責任を完璧に果たしたとしても,私は自分の書いた内容が正しいとは信じていない。“どこかに正しい理論があり,その理論を発見し,読み学び理解すれば,精神障害は治る”と考えること,このような考え自体が嫌なのである。正しい道を信念をもって求めること,正しい道があると信じることは違う。この二つを混乱することが人を誤らせている。正しいと思うことに懐疑的な態度を持つことをクリティカル・シンキングと呼ぶことにしよう。
 その一方,誤りがいくらあろうとも,今このように,この原稿を書くことが自分にとって良いことだと感じ,その感じを私は信じている。こうした感情は,好悪や善悪であり,価値観であり,“価値条件づけ”の結果である。感情こそが選択を決める。その場その場で,何を学び,何をするか,は選択行動であり,直接経験したことによる“価値条件づけ”が選択を決めているのだ。私は,講演や研修会の講師に呼ばれるようになった。そして,講演で「原井の本はないのですか?」と尋ねられるようになった。私がこの本を書くに至った経緯を考えると,自分の好悪の感情や価値観が良かった,それに基づく選択が良かった,と結果として言える。これは私が行う治療が正しかったから,ということではない。私の治療が正しいか間違っているかは治療している当人である私にはわからない。正しさには私はこだわらない。治療のやり方ではなく,私の価値観こそが伝わるべきものだと信じている。私がここまで来た道を選ばせてきた価値観が読み手に伝わること,そしてそれが永く残ること,これが私がこの本を書く事によって得ようとしている結果だと言える。
 このような感情は,“態度”ともいえる。態度はどのようにして伝わるのだろうか。認知行動療法の技術には進歩があるが,人が人に態度を伝えるための高等教育の方法は紀元前のころからさほどの進歩はない。教育カリキュラムや教授法をいくら工夫してもプラトンが作ったアカデメイアを超えることはないだろう。おそらく,昔ながらの師弟制度,すなわち,優れた価値観をもつ師につき,師が黙々と働くところのそばに居続けることが,優れた価値観を引き継ぐもっとも良い方法である。言語は補足でしかない。私は私の近くにいる人が,この価値観を学び,使えるようになるために有用な補足になることを願ってこの本を書いている。私自身は,良い師匠と思える人を実際の職場や研修会,講演,メールなどを通じて何人か知っている。その人たちに会い,個人的なやりとりができることに感謝している。このように実際の経験の中で身につけた行動は随伴性形成行動と呼ばれる。講義を受ける,本を読むことによる学習(ルール支配行動)とは対極の行動である。人間の文明の進歩はルールの進歩と呼ぶことができる。しかし,人の感情や態度をルールで支配し続けることは不可能である。感情や態度を形作るとき,実地の経験を積み重ねること,随伴性形成行動以上のものはない。
 私自身もいままでさまざまな経験のなかから好悪や善悪の感情を身につけ,それが判断のために役立ってきた。ウィリングネスという情動を身をもって示してくれたのは,エクスポージャーという困難な課題にまじめに取り組んでくれた患者さんである。私はそうした患者さんに感謝している。
 熊本に最初に来たとき,わざわざ北海道から私に会いに来てくれた心理士がいた。菊池病院で2年間一緒に働いてくれた心理士はこの2年間のことをまるで学校にいたようだったと表現した。また今一緒に仕事をしている心理士は私の仕事の進捗を見守ってくれている。そして臨床研修制度が始まったころにやってきた臨床研修医達や今の勤務先に見学にやってくる開業医達は私の診察・治療場面に陪席することを楽しみにしてくれる。名前は記さないが,私は彼らに感謝している。ここに記した私の感謝を彼らが目にしたとき,それが彼らの励みになることを信じている。
 最後に,この本を書くにあたり,基本的な理論や用語を行動分析学に頼ることにした。理論的概念のほとんどはいわゆるマロットの本と呼ばれている杉山らの本に依拠している(杉山尚子, 島宗理., 佐藤方哉, マロット, & マロット, 1998)。コンテキスト条件づけと選択行動のところははネバダ大学のO’Donohue先生が編集した理論書に依った(Boutin & Nelson, 1998)。わかりやすい本を著してくれた彼らに感謝する。
 さて,本を始めよう。