はじめに

本書の説明と本書の意義―実践家の方々に

 このたび,金剛出版より本書を出させていただくことになりました。私の専門は,広い意味では社会心理学ですが,臨床心理学や精神保健学,精神医学との境界領域において研究と実践をしてきました。境界領域に立って,人々の心の健康に関わる活動をしていると,臨床心理士や保健師,精神科医など,最前線で仕事をされている方々が大変なご苦労をされていることがよくわかります。まず,取り扱う業務内容の広がりや仕事量の多さが挙げられるでしょう。また,取り扱うケースにひとつとして同じものがなく,臨機応変に対応せざるを得ないことも仕事量の多さと関連するでしょう。近年は,インターネットの発達とともに,クライエント自身が自分の問題について詳しく調べ,専門家に質問することもあるようです。
 一方,境界領域に立って,人の心理についての基礎研究を見てみると,いろいろな知見が存在していることがわかります。心理学の研究者は国内にとどまりません。世界中の研究者が人の心理について研究をしており,専門誌や学会などを通して情報交換しています。
 さて,基礎と実践という人の心理に関する2つの領域を見てみると,実践は基礎における知見を活かしきれていないように私には思えます。臨床現場における「経験則」や「勘」は低く見られるべきではありませんが,クライエントに対するある働きかけがなぜうまくいったのか,クライエントがなぜ不健康な状態になったのかについての,実証的な研究に基づく心理学的な説明(すなわち理論)はやはり必要だと思います。このような理論があれば,たとえばクライエントや一般の人に対して,臨床実践が功を奏した理由を説明することができるでしょう。さらにこのような理由を知ることで,心の不健康の発生や再発の予防につながるかもしれません。また,心理学の理論を知っていることで,未知のケースに対する働きかけを考える際のヒントにもなります。

 社会心理学は,臨床で扱う現象とは無縁の「健常者」の心理を取り扱っているので,実践とは関係ないだろう,と考えている人もいるかもしれませんが,この考えはいささか古いと思います。社会心理学の取り扱う対象や研究方法も,また臨床を取り巻く状況も,以前とは大いに変わってきました。いまや社会心理学の研究成果は,人々の心の健康を考える際に役に立つと言えるでしょう。
 一方,心理臨床の現場では,個人の心の健康に関する社会的なパースペクティブが比較的希薄なように思います。臨床実践では,「クライエントに何か問題があって,現在の状態になっている」という考えが主流だと思います。この考え方自体は間違っていないかもしれませんが,このような考えの裏側,つまり「クライエントをして,そのような反応をさせた環境要因とは何なのだろうか」についても,目を向ける必要はあるでしょう。
 社会心理学と臨床心理学とは,決して水と油のような互いに異質な存在ではありません。むしろ,互いが互いを補い合って,初めて真の人間理解につながるのではないかと思います。2つの領域は,もっと接近してお互いの不足を補うべきでしょう。本書はこの理念に基づいて,抑うつと自殺に絞って臨床に関連する社会心理学の研究成果を網羅しました。社会心理学的な研究成果は,普段,臨床に携わっている人にとっては無縁だと思えるかもしれませんが,本書を読んで,個人と社会の相互作用の点から抑うつや自殺の問題を考え直すきっかけとしていただければ幸いです。

本書の内容と読み方

 本書は筆者らの著作の内容を一部改変し再掲したものですが,研究のレビューや論文後の動向についても書いてありますので,この分野について簡単に知ることができます。研究法についてもなるべく多様になるよう著作をピックアップしましたので,研究を目指す人には研究法を知るという意味でヒントになると思います。
 本書は,大きく分けると3部構成で,計18の章から成り立っています。各章は独立しているので,どこから読んでいただいても構いませんが,概論についての章(第1〜4,11,14,17章)を先に読んでいただいたほうが,理解が進むと思います。
 まず最初のパートは,「I 臨床心理学と社会心理学のインターフェイス」です。心理臨床の心理学的基礎をなす学問(「基礎学」)があります。社会心理学も基礎学のひとつですが,第1章では,社会心理学的な考えや知見が心理臨床を進めていく上で役に立つことを論じています。
次のパートは「II 抑うつへの心理援助」です。
 まず,第2章と第3章で,抑うつの基礎知識をまとめて提示します。第2章では,抑うつの定義と測定,疫学,連続性の議論,心理学的研究をする際の留意点などについて説明します。第3章では,心理臨床の専門家と基礎研究者との協働のあり方について論じます。日本の臨床心理学研究の現状を文献のレビューを通して論じた後,よりよい心理臨床実践に向けて,基礎研究者との協働の必要性を説明します。
 第4〜6章は,「個人から見た抑うつ」として,抑うつの社会的認知理論を説明します。第4章では,自己複雑性,セルフ・スキーマ,自己確証を取り上げ,抑うつとの関係について簡単に説明した後,自己注目と抑うつとの関係について詳述しました。第5章では,自己への注目の持続と抑うつとの関係を実験によって調べた研究を提示します。ところで,抑うつなどのネガティブな感情や思考は,ひどくなると治療の対象となりますが,軽いものまで考えると,ネガティブな感情や思考のすべてが果たして「百害あって一利なし」なのでしょうか。第6章ではこの素朴な質問に対して,自由記載の分析によって検討を試みました。
 第7章と第8章では,「対人関係から見た抑うつ」として,抑うつに関連する対人研究を紹介します。第7章は自己開示と自己没入,抑うつの関連を質問紙によって検討した研究です。第8章は被拒絶感・被受容感と自己没入,抑うつとの関連を質問紙によって検討した研究です。
第9章と第10章は,「社会における抑うつや精神疾患」に関する研究を収録しました。第9章では東京とバリ島との比較を通して,人々がもつ精神疾患に対する認知の違いを考察します。第10章では,うつ病になったとき一般の人々がどのような治療を好むかについて行った実証的な検討を紹介します。
 最後のパートは「III 自殺への心理援助と予防の実践」です。自殺は社会の中で起こる現象であるにもかかわらず,「個人の問題」とされ,社会的な視点からの対策が遅れていました。また,「うつ病の結果として自殺が起こる」という医療モデルに準拠した考えが支配的でした。もちろん,これを否定するつもりはありませんが,社会の中で起こる問題であることを認め,社会的な施策をとることは自殺対策として重要です。本書では,まず第11章で自殺行動への社会心理学的アプローチについて論じます。つづく第12,13章では,自殺行動に与える社会的な要因として自殺報道の影響を取り上げます。第12章では先行研究のレビューなどを通して,また第13章では実際に新聞記事の内容分析を通して,自殺報道の問題点を明らかにしていきました。
 第14章以降は,自殺や抑うつの予防を目指した実践と研究について論じました。
 第14〜16章では,「地域における予防の実践」として,筆者らのグループが1999年より行っている,青森県A町における自殺予防の取り組みについての研究を中心に紹介します。まず,第14章では,近年特にさかんになってきた地域における自殺対策についてレビューし,筆者らが行ってきた取り組みについて詳述します。第15章では,筆者らがA町で行ってきた初期の実践研究として,援助希求行動の調査について述べます。第16章では,同じくA町における実践研究として,ソーシャルサポートと精神的健康との関連について説明します。
第17,18章では筆者のもうひとつのフィールドである「大学における予防の実践」について説明します。第17章では,大学における不適応予防の実際として,日米の大学における実践をレビューします。また,筆者らの取り組みについても簡単に説明します。筆者らは,大学の授業を使って抑うつの予防的取り組みを行っていますが,第18章ではその効果について実証的に検討しています。

 本書では,筆者自身が執筆した論文に加え,共同研究者が第一著者となった論文も収録しています。共同研究者の中には,臨床心理士,精神科医,保健師などもおり,専門も,社会心理学以外に,臨床心理学,健康心理学,教育心理学,精神保健学,精神医学と多岐にわたっています。実際,精神的健康をテーマとし,真摯に取り組んでいこうとすると,自ずと他領域の専門家と協働することになります。今後,日本でも実践と基礎との協働が進み,一般の人によりよい心理サービスを提供できるようになることを期待したいと思います。
 最後に,本書に収録された論文の共同研究者の先生方ならびに研究をサポートして下さった方々にお礼を申し上げます。また,金剛出版の藤井裕二さまには,本書の企画をご提案下さり,英文論文の翻訳から,編集,出版に至るまで大変お世話になりました。この場を借りてお礼申し上げます。