監訳者あとがき

 以前からも存じ上げていたが,アジア家族研究家族療法協会(CIFA)の立ち上げに関わってから,李維榕(LEE Wai Yung)先生との交流がさらに深まった。香港でのCIFA 第1 回シンポジウムでも,李先生はミニューチン先生が現れるのを最後まで待っていた気がする。しかし,ミニューチン先生はさすがにご高齢のために来られなかった。だがそのシンポジウムではミニューチン先生はDVDの映像を通じてアジアの家族と家族療法の発展のためのすばらしい励ましの言葉を私たちに伝えてくれた。そして,本書の日本語版への序文も李先生に託された。
 この家族および夫婦への介入のための四つのステップを示す本書は,この上なく素晴らしい構成をなしていると手に取ったときに直感的に感じた。ニコルス先生の要を得た各部冒頭での解説,ミニューチン先生の臨床の臨場感あふれる叙述と,その奥にある類まれな人間理解への感性からくる解説,そして李先生は中国での事例を引き合いに出して,このステップの臨床上の有用性を示すなど,充実した内容になっている。
 ミニューチン先生の「芸術的」ともいえる介入が,彼の繊細な内省力に基づいていることをこれほど明白に私たちに語った著書は今までにあったであろうか。彼ほどに文化をも超えてさまざまな家族に出会い続けている臨床家は他にいるのであろうか。
 李先生も本書の序文で触れているように,私たち日本人が,初めて「家族療法」に直接触れたのは,1983年のミニューチンの東京でのワークショップであった。今でもそのインパクトは身体に残っている。ある参加者が先生の介入に疑問を差し挟んだとき,先生は即座に壇上から駆け降り,文字通り顔と顔を突き合わせて彼を先生の臨床経験をもとに論破した。恐ろしかった。
 その後の1990年代,先生は夫婦の歴史に触れるアプローチを取り入れた。今までの構造派の「今ここで」の介入からは過去を探索するという点で逸脱しているかのようであった。しかし,本書を読めばわかるが,先生は「今ここに息づく過去」を関係の変化を促すために引き出している。単なるノスタルジックな力動的理解ではない。この頃から先生は,ちょっと穏やかになった気がする。
 しかし,2000年のはじめ米国の家族療法学会のシンポジストの一人として登壇し,フェミニスト・セラピストたちの批判にさらされたとき,ミニューチン先生は以前のように矍鑠とした毅然とした態度でこう述べた。「私の介入は家族をよくするためでしかない」と。このときは私を含め会場の皆が,「ミニューチンの開き直り」ではないかと思い息をのんだ覚えがある。しかし,本書を読めばそうではないことがわかるだろう。
 彼のこのジェンダー問題に対する姿勢は本書の中にもちりばめられている。ジェンダー理解についての先生ご自身の体験から来るバイアスを十分に咀嚼しての思慮深い介入が目につく。高齢にして信じられないほど実に柔軟である。晩年を迎えた先生が,先生の発見創始した構造派の家族療法から自ら自由になる姿勢も終世真の臨床家である証である。「これは構造派の技法」,「あれは誰の技法」といったこだわりを捨てられておられる。発見した独自の理論を強調し,それを道連れに歴史に残る一生を終えたい研究者や臨床家もいるだろう。しかし先生は,こうした狭い了見で日々の臨床活動をしていないことがよくわかる。すべて家族の福利に役立つのなら,友人かつ協働治療者だったヘイリー先生のアイデアさえも借用する。おそらく先生の知己にしている名だたるセラピストなら,この場面でどうするのだろうと考え,頓着なくそのやり方を「拝借する」。「拝借する」力量があるから,それは目の前の家族に役立つ。それは,最初の日本でのワークショップでウィタカー先生の面接場面をうれしそうに解説する姿の中にはじめからあらわれていた気がする。家族のためなら何でも使うのである。フィラデルフィアの貧困地区に育った非行少年たちとその家族に,まずはスクールバスを提供するという「介入」をしたように。
 本書の下訳をかってでてくれた皆様と金剛出版の高島さんのお陰で日本語訳ができた。深く感謝したい。

中村伸一(中村心理療法研究室)