序文

 本書は,第一線で活躍されている臨床家の方々から臨床の知恵を教えていただきたいと考えて企画したものである。
 ずいぶん過去の話になるが,私が研修を受けたころにはうつ病は治る病気だと言われていた。しかし,その後,うつ病はそんなに簡単な病気ではなく,むしろ慢性疾患であると考えられるようになってきた。しかも,従来うつ病性障害と考えられていた疾患群の中に双極性障害が少なからず含まれていることも明らかになってきた。
 また,気分障害を初めとする精神疾患が,患者や家族にとって大きな負担になるだけでなく,社会的にも大きな問題であることが明らかになっている。最近も,厚生労働省が,自殺とうつ病の社会的コストが2兆7千万円になることを発表して話題になった。この試算はアブセンティーズムを中心に行われたが,社会参加をしながらも従来の能力を発揮できないプレゼンティーズムまで含めると,その倍近くになると言われている。
 こうした中,うつ病の早期発見,早期治療が強調されるようになり,さまざまな啓発活動が盛んに行われるようになってきた。復職支援プログラムを始めとして,症状が改善した患者の社会への復帰を支援する仕組みも整ってきた。このように,うつ病治療の入口と出口の仕組みは少しずつ整ってきているように思う。その中間領域,つまり治療そのものの改善の余地はまだ多く残されているように思う。
 そこで,日常臨床でうつ病の治療に難渋したときに役に立つコンパクトな書籍を作ることができればと考えて企画したのが本書である。苦しんでいる患者さんを目の前にして治療方針を立てるときに,エビデンスに基づいて考えることができれば,それに越したことはない。ただ,残念なことに,わが国ではそうした客観的なエビデンスが決定的に不足している。薬物療法の効果に関して,新薬開発の際の治験以外に体系だったランダム化比較対照試験は行われていない。精神療法に関してもごく限られた知見が存在しているだけである。また,臨床の知恵はエビデンスだけで語れるものではない。
 こうしたときに大きな力になるのが,現場で活躍されている臨床家の方々の知恵である。その知恵を教わりながら自分の経験を生かすことができれば,それに勝るものはない。そのためにも,著者の先生方には,教科書的なものというよりはむしろ,現場で工夫されていることを中心に自由な形でお書きいただくようにお願いした。
 その結果できあがったのが,臨床の知恵にあふれた本書であり,こうした書籍が発刊できたことは編者としてこの上ない喜びである。これは,著者の先生方のご協力はもちろんのこと,丁寧に辛抱強く編集をしていただいた金剛出版の中村奈々氏のご助力によるところが大きい。ここに心から感謝の意を表したい。
 

2010年10月 大野 裕