あとがき

 「未熟型」は,自治医科大学精神医学教室の初代主任教授であった故宮本忠雄先生が命名したものである。先生ご自身は1970年代に目立ってきた若い人の内因性うつ病として簡単に取り上げただけで,その後は精神病理学的な考察を加えて概念化しているわけではないし,症例検討会などでもうつ病の未熟なタイプとして言及されたにとどまったと記憶している。筆者がこの概念をまとめたのはちょうど教授の退官の前後である。先生は晩年,病床に伏していた期間が長かったこともあり,未熟型うつ病について議論する機会はほとんどなかった。この概念についての先生のお考えとはかなり違っていたかもしれず,御存命であれば今日のような形になっていなかったかもしれない。
 むしろ今日の未熟型うつ病を概念化するきっかけを与えてくれたのは,現主任教授の加藤敏先生である。当時,当大学病院に入院してくる成人のうつ病患者のなかに,メランコリー親和型や執着性格とは異なり,不安焦燥は激しく希死念慮も強いものの,入院させると軽躁状態になる一群の患者に気づかれた。こうした症例は,末子に多いことに加え,単科の精神科病院ではあまり目にすることがなく,大学病院の開放病棟という特殊な環境で退行的な行動が誘発されているようであった。症例検討会でも度々話題になり,少しまとめてみてはどうかと勧められたというのが始まりだった。小生にとっては,学生時代に臨床実習で受け持ち,数年たって精神科医師として初めて担当したケースがまさにそれで,精神科医のキャリアの最初における運命的な出会いであった。
 考察の出発点は広瀬徹也先生の逃避型抑うつと比較することであった。こちらはメランコリー親和型とは異なる現代的病像としてすでに有名になっていた。年代的にはほとんど重なりながらも,未熟型うつ病のほうがより重症で,混合状態を呈しやすく,明らかに双極性障害であるという点で異なっていた。また,飯田眞先生のうつ病の双生児研究にも大きな影響を受け,同じ遺伝因をもっていても養育環境によって病像が異なるという知見は,未熟型うつ病の病像と末子の養育状況との関連を支持するものであった。
 話は前後するが,筆者の学位論文は本書にその一部が収められている「妄想型うつ病の精神病理学的考察」である。そこではうつ病妄想の形成における躁的因子としての「負の誇大性」の役割を強調した。その後,宮本先生が躁うつ病の基本病像としての混合状態を提案され,筆者もうつ病全般における躁的な因子に着目することになった。この流れから必然的に,未熟型うつ病における躁的な因子をどう評価するかという問題意識につながった。すなわち,病前性格の軽躁的な成分とうつ病像における軽躁的な因子,軽躁状態への転換である。
 ちょうどこの頃,Akiskalの双極スペクトラムという概念が,広瀬先生によって日本に紹介された。ここで,未熟型うつ病とbipolar IIが見事につながったのである。また,それまで関心を抱いていた躁的因子についても,この概念が大いに参考になった。本書のタイトルである「未熟型うつ病と双極スペクトラム」は,小生のライフワークとして,まさに二大概念となったのである。
 後半の論文では,操作的診断基準によって軽視されがちなうつ病の症状や経過を扱っている。その際の導きの糸となったのは,W. Janzarikの構造力動論である。すでに二代前のドイツのHeidelberg大学精神医学教室の主任教授であるが,なおも精力的に研究活動を続けている。生物学的精神医学隆盛の時代にあって,ドイツ本国でも精神病理学的な研究は衰退の一途であるが,彼の構想は現象学的精神病理学とは異なり生物学的精神医学にも通じる面があり,症例を理解する際に格好の座標軸を提供してくれた。本書を一読すればわかるように,筆者の研究は他にもCh. Mundt,H. Kick,A. Kraus,T. FuchsといったHeidelberg大学精神医学教室の面々に大いに刺激を受けている。特にFuchsを除く3人とは直接意見を交わす機会が何度かありコメントもいただいた。こうした学問的方向性ゆえ,また同大学で学んだ宮本忠雄先生の不肖の弟子としても,Heidelberg学派の末席に身を置いているつもりでいる。
 本書の出版にあたっては,金剛出版の立石正信社長ならびに藤井裕二氏に大変お世話になった。特に,アンリ・エイの『幻覚』の翻訳が大幅に遅れて,ご迷惑をかけたにもかかわらず,本書の出版を快諾された立石氏には感謝の言葉もない。また掲載論文の修正加筆にあたって,さまざまな便宜を図っていただいた藤井氏の存在なくして,無事出版まで至ることはなかったと思われる。
 ちなみに,本書で挙げられた諸症例は,すべて筆者が経験したものではなく,自治医科大学精神科やその関連病院の診療記録から得られたものも含んでいる。それぞれのケースの主治医であり,また症例検討会で議論し多大なる示唆をいただいた高野謙二,西嶋康一両教授をはじめとした医局の先生方や,小山富士見台病院の故新井進先生,小林勝司院長ほか関連病院の先生方に感謝したい。そして何よりも貴重な治療経験を与えてくれた多くの患者さんやその家族の皆様方に,この場を借りて御礼申し上げたい。
 現在,筆者は4年前に新設された「子どもの心の診療科」を任せられたため,大学での臨床は子供中心になっている。さまざまな臨床像を示す高機能広汎性発達障害の患児たちを診療する機会にも恵まれ,臨床が鍛えられる毎日である。今後はこの経験も踏まえ,気分障害の研究を全ライフステージにわたって展開したいと目論んでいる。いずれにせよ,子供の診療のかたわら,本書の出版に漕ぎ着けることができたのは,ひとえに桃井真里子自治医科大学医学部長・自治医科大学とちぎ子ども医療センター長のご厚意によるもので,今後ともご指導ご鞭撻をお願いする次第である。
 最後に,学生時代より丁寧なご指導をいただき,いくつかの論文の共著者でもあった加藤敏教授に改めて深謝いたします。

2011年1月 阿部隆明