監訳者あとがき

 本書はティル・ワイクス先生と彼女の共同研究者であるクレア・リーダー氏によって書かれた“Cognitive Remediation Therapy for Schizophrenia:Theory and Practice”の全訳です。原著が出版されたのは2005年であり,比較的それからすぐに日本語の翻訳をすることが決まったのですが,それからかなりの時間がたってしまったことに対しては,この翻訳を待ち焦がれておられた人々にお詫びを申し上げます。
 監訳者は大学院修了後富山医科薬科大学(現富山大学)医学部精神神経医学講座に入局して以来,約20年統合失調症の人たちの臨床研究に携わってきました。倉知正佳先生が教授として赴任された翌年に私も当大学に来る機会にめぐまれましたが,当時から統合失調症の病態解明が講座の大きな研究テーマの1つでありました。そして,統合失調症をめぐって講座では,生化学,脳画像,精神生理学,薬理学,神経心理学などさまざまなアプローチから取り組んできておりました。その中で,私はとくに神経心理学によるアプローチを行うことを専門家として求められ,神経心理学的検査を駆使し,認知機能のアセスメントを日々行ってきました。そのため統合失調症の認知機能に関しては,長年ずっと着目してきたことでしたが,アセスメントでみられる統合失調症患者の認知機能障害を何とか改善する手立てはないものだろうかとしばしば考えることがありました。
 最初に認知機能障害の改善に関することが私の中に培われたのは米国ペンシルバニア大学に留学中(1995-1997)であり,米国でも当時まだ新しい領域で,その基礎研究を行っているポスドク研究員の仲間が行っていることにとても関心をもって見ていました。帰国後もさまざまな文献を読む中で,“Cognition in Schizophrenia”(Oxford,2002)という本の1つの章で,ワイクス先生がCognitive rehabilitation and remediation in schizophreniaという認知リハビリテーションの概観をされているところを読み,私が求めていたものは「これだ」と直感しました。統合失調症はそれまで心理学的にはかかわりようのない疾患で,せいぜい神経心理学的アセスメントにより認知機能障害を明らかにするだけであるという考えが広がっていました。しかし,ワイクス先生の記述を読み,このこと自体を介入の対象としていける可能性を垣間見た思いでした。
 2005年の夏にアイルランドのダブリンで開催された国際神経心理学会に参加する前にロンドン精神医学研究所を訪問することにしました。さまざまな認知行動療法の研究室を見学するとともに,ワイクス先生とも出会い,改めてそこで認知機能改善療法も本格的に取り組まれていることを知りました。その時に認知機能改善療法をよりよく知るためにはどうしたらよいかを尋ねたところ,ちょうどこの原著がもうすぐ出版される予定であるとお聞きし,その年おそらく日本にいる誰よりも早くこの著書を手に入れることができたといういきさつがありました。2005年には東京大学の下山晴彦先生からのご依頼で,東京大学大学院教育学研究科で「臨床認知脳科学」という授業を担当し,12月に集中講義を通して1週間東京大学の大学院生とともに過ごしました。講義の中で,統合失調症の認知リハビリテーションにも触れたところ,一部の学生さんたちが大変関心を示し,勉強するための良い本はないかということを尋ねてきました。日本語の良い本はないが,英語の良い本があることを述べたところ,勉強を兼ねながら,この本を翻訳するという話が盛り上がり,学生さんの熱意も手伝って,そのための作業を始めることにしました。東京大学側の学生さんと私の周りにいる富山大学側の心理スタッフが各章を担当し,読み合わせをすることにしました。そのため,富山と東京に交互に一同が集まって読み合わせを行うということもいたしました。かなり大部な著であるということと,翻訳の不慣れさからかなり長引いており見通しがまだというとき,私が2006年と2008年に北海道大学へ講義をしに行った折,北海道大学精神科の2人の先生がとても関心があるということで訳を手伝っていただくことになりました。こうした長い経緯をたどって,本書はようやく陽の目をみることになりました。
 ワイクス先生のアプローチの基本には臨床的な視点が根付いており,当事者の幸福につながることがめざされています。そのために,本書は認知機能改善療法の歴史的背景から,これまでの基礎研究,理論モデル,および治療過程の実際について詳細に記述されており,この1冊を読むことにより,認知機能改善療法についての概要を知ることができるでしょう。なお,Cognitive Remediation Therapyを「認知機能改善療法」と訳しています。Remediationというのは,悪いものを直すというよりも,まさにより良いものに,ないしはより適応的に認知機能を改善するための治療という意味合いがあると思われます。これをわが国にも定着させるためには日本語のニュアンスとあわせた訳語の選択は重要と思われるので,読者の忌憚ないご意見がうかがえるとありがたい次第です。
 終わりに,各章の訳者のほか,富山大学(当時富山医科薬科大学)に在籍していた中村晃子,鳥居幹樹,馬場伊美子,宮崎淳,奈良原光隆,松平志保の各諸氏には一部の粗訳を手伝っていただきました。豊巻敦人先生には担当された章以外に3章までの熟読をしていただき,それらの訳の精錬のお手伝いをしていただきました。また,前富山医科薬科大学精神科教授(現富山大学副学長)倉知正佳先生には訳語に関する助言をいただきました。東京大学大学院教育学研究科下山晴彦教授には東京大学の大学院生がこの翻訳作業に関わることへのご理解をくださいました。東京大学大学院総合文化研究科丹野義彦先生からは,ワイクス先生に関する資料を賜りました。これらすべての皆様に記して深謝いたします。最後に,出版に際してお世話になりました金剛出版の高島徹也さんにお礼申し上げます。

2011年3月 松井三枝