はじめに

 「こころの時代」という流行文句はいつのまにか「うつの時代」にとって替わられた。長引く不況(depression)の中で,私たちの生活には,うつうつとしたニュースが後を絶たない。倒産,リストラなどは,不運な人を襲う偶発的な出来事ではなく,いつ自分に起こるか分からない人生の通過点の一つと思われるようになっている。このような経済事情と密接に関係してか,うつ(depression)は,病院の精神科という限定された専門科で扱われる医学的な問題から,より一般的で身近な現象となりつつある。サラリーマンの夫がうつになってからの生活をエッセイ風に描いた『ツレがうつになりまして』というマンガは,2005年に出版され,30万部以上売れている。このマンガは,2009年にはNHKでドラマ化され,人気女優が主人公の妻役を演じ,話題となった。2010年にはついに映画化され,2011年秋公開される。このほか,女性誌,経済誌など幅広いジャンルの雑誌でたびたびうつに関する特集が組まれ,うつの体験記が書店には数多く並んでいる。自身がうつにならないようにどんな予防策があるか,うつの家族とどうつきあうか,うつの部下にどう接するのか―身近な存在であるうつへの対応が,大きな関心事となりつつある。職場のうつ,思春期の子どものうつ,マタニティーブルー,老人のうつなど,うつはライフサイクル全般における問題となり,私たちの生活のさまざまな側面にひそむ影となっている。
 うつは,社会的な問題,経済的な問題,そして国家的な問題となりつつある。国立社会保障・人口問題研究所による推計では,うつ病にかかる医療費は2,971億円に達し,うつ病がきっかけとなった生活保護者への給付金は3,046億円となっている。そして,うつが大きな原因の一つである自殺によって失われた所得合計は,1兆9,028億円にものぼるという(朝日新聞[2010年9月8日])。自殺は,大切な人を失う家族にとって長期的に経済的にも心理的にも大きな痛手となる。このように,うつになった本人と家族と治療者の問題ではなく,うつは国益と日本の将来の問題と考えられるようになってきた。
 臨床家は何らかの形で,うつにふれてきたことがあるだろうし,うつは,クリニックをはじめとしたさまざまな臨床の現場においてもっとも頻繁にみられる問題のひとつと言える。しかし,うつが一般化しているからといって,それに苦しむ個人や家族,周囲の人たちがうまく対応できていることを意味するわけではない。また,臨床家が一般的に扱っているからといって,うつに対する心理的介入が過去と比べて,飛躍的に効果的になったり,治療が短期的に治まるようになったわけでもない。うつは,非常に大きな影響をもたらす重要かつ一般的な心理的問題なのである。そして,今日では,うつの問題も多様化しつつあるのだ。したがって,臨床家は,症状や訴えの本質をより細やかに見分け,アセスメントし,これまでにない対応を迫られている。そして,うつに関する知識とそれを扱うための理論的知識や臨床的スキルをさらに身につける必要が高まっている。
 一昔前までは,うつは,責任感が強く,会社のために尽くしてしまうまじめ気質の人がなる過労の病とされることが多かった。しかし近年のうつに関しては,かなり異なる人格特徴などがあげられている。たとえば,「現代型うつ病」「未熟型うつ病」「ディスチミア親和型うつ病」という,若い世代を中心とした,比較的軽症で,身体症状や不安・焦燥を前景とする新たなうつでは,自己愛的,打たれ弱さ,人格的未熟さ,協調性のなさなどが指摘されており,「うつ」の性質も変わりつつあるのだ。
 カウンセリング・心理療法はこれまでうつを最も中心的な心理的問題の一つとして扱ってきた。たとえば,古典的な精神分析的仮説は,うつは,自身へと向けられた攻撃性によって引き起こされるとした。また,認知療法では,歪んだ思考様式によって,気分の落ち込みや不安などが喚起されると仮定した。これらの仮説は広く受け入れられてきた。しかし,より多様な現れをみせるうつを効果的に扱うためには,既存の理論や介入法を見直し,それぞれの臨床現場や対象とするクライエントのニーズに合うように修正し,ほかの技法や考え方を取り入れて介入することも必要となるし,実際にそのような試みは広く実践されている。それは,複数の理論的概念や技法を組み合わせて,一人のクライエントに合ったアプローチをする心理療法統合(psychotherapy integration)の試みである。臨床家の大多数は,何らかの形で「折衷的」または「統合的」なアプローチを採用しているが,これまで日本では,どのような形の統合が可能なのか,またうつという問題に対して,どのような統合が効果的とされているのか,などといった文献がほとんどなかった。
 本書は,現代のうつの特徴を明らかにして,うつに対する統合的なアプローチを解説することを目的とする。具体的には以下の4つの問いに答える。

 ・現代のうつを含め,うつとはどのような心理的問題だろうか。
 ・臨床家はどのようにしてうつの問題に対して「統合的」に対応しているのか。
 ・ライフサイクルのさまざまな局面において,うつはどのように露呈し,臨床家はそれに対してどのように対応しているのだろうか。
 ・うつへの心理的介入の効果に関して実証的研究はどんなことを示してきたか。

 本書は,4部構成となっている。第1部「現代の「うつ」とされる心理的問題」では,うつという問題の診断とアセスメントを歴史的そして包括的に概観する。第2部「統合的アプローチ」では,うつに対する代表的な統合アプローチを紹介する。第3部「ライフサイクルとうつ」では,ライフサイクルを通して,うつの問題について考える。第4部「うつの変遷と臨床家の統合的発展」では,うつの心理療法のエビデンスおよびうつになる体験に関する研究のレビューを提示する。第18章で全体のまとめを示し,編者の一人である福島による「結語にかえて」を配し、最後に編者の「編集後記」を加えた。
 本書は,臨床心理学を大学および大学院で勉強する学生および若手の臨床家,メンタルヘルスに関わる看護師,精神保健福祉士,社会福祉士,心理療法に関心がある医師に向けて書かれた。うつについてのわかりやすい解説に加えて,各章に事例と治療経過を加えることによって,理論と実践のあいだのつながりが明確になるように構成した。執筆者は,さまざまな臨床現場で,そしてさまざまな理論アプローチから,うつという問題に取り組んできた精神科医と臨床心理士をはじめとする臨床家である。臨床経験から積み上げていった独自の統合アプローチ,心理療法統合の発展において中心的な役割を担ってきたアプローチなど多岐にわたる。また,うつに関する研究を扱う第15〜17章では,うつに対する心理療法のエビデンスに加えて,うつ患者の主観的体験と臨床家のうつの体験に関する研究レビューを加えた。うつという体験自体に焦点を与えることによって,本書に紹介されたアプローチを見直すよいきっかけとなると考えた。
 本書は,「うつ」という古典的な心理的問題とそれへの介入法を,現代日本の臨床実践という枠組みにおいて捉え直している。その目的は,古典的な「うつ」という概念を見直し,古典的なうつに対する単一理論アプローチが実践現場においてどのように修正され,発展されているのか,ということを示すことである。
 心理療法統合は,学派の壁を超えて臨床家の交流を発展させることを目的とする。
 本書がきっかけになり,うつという問題に関して,異なるアプローチの臨床家の間で,そして,精神科医,臨床心理士だけでなく,さまざまなメンタルヘルスの専門家や,その支援やサービスの受け手のあいだでの対話が発展することを願っている。

岩壁 茂