初版 はじめに

 昨今の臨床心理学ブームは,勢いを増すばかりである。世間の耳目を集める痛ましい事件・事故があるたびに「心のケアの必要性」「心の豊かさの大切さ」がマスコミで声高に取り上げられ,臨床心理士をはじめとする「心の専門家」が発言を求められる機会は増えている。「心の専門家」に憧がれる若い人々は年々増加し,臨床心理学を専攻できる大学・大学院はどこも大盛況である。社会人入学も増加の一途であり,なかには現在の職を辞して「心の専門家」を目指す人もいる。こうした風潮を背景に,臨床心理学系の大学院受験を専門とする予備校まで登場したと聞く。
 では,臨床心理学「研究」への関心はどうだろうか。残念なことに,臨床心理学ブームの最中,「研究」という重要な営みは置き去りにされていると言わねばならない。臨床心理学の関連学会に参加すると,研究の基本や常識がおろそかにされている発表が散見される。修士論文以来,研究らしい研究をしたことがない,という臨床心理職者も数多い。「研究は苦手だし,研究するための時間もない。自分は臨床だけできればいい。研究は,研究できる環境にある人,たとえば大学の教員などがやってくれればいい」と,臨床から研究を切り離して考える心理職者も少なくない。
 本書は,こうした風潮に危機感を覚えた著者らが,臨床心理学研究の意義を再認識し,研究の基本に立ち返る必要性を示すために書いたものである。読者層としては,大学院修士課程を修了したばかりの人から臨床経験5年程度の若い臨床心理職者を想定している。多忙な現場にいる若手の方々が,日々の臨床実務を基に研究を進めていくための手引きとなるよう,研究の基本と常識をわかりやすく解説することを心がけた。
 本書執筆の契機は,2003年5月の包括システムによる日本ロールシャッハ学会第9回大会において筆者らが担当した大会企画講習会「研究発表講座――研究をまとめる際のポイント」である。筆者らは同学会の編集委員を務め,同学会誌の投稿論文の査読にあたってきた。こうした役割のなかで痛感したのは,若い学会員の研究離れが深刻なことであった。そこで,学会として何か手を打たなければと考え,研究のノウハウに焦点を当てた講習会を開催したのである。この企画が金剛出版の山内俊介氏の目にとまり,本書が世に出ることになった。
 本書は,7つの章から構成されている。
 まず第1章「だれもが研究するために」では,臨床家の研究離れの背後にある要因について考察した上,臨床家が研究することの重要性について論じる。第2章「臨床心理学研究の基本」では,調査研究と事例研究に関しておさえておくべき基本について概説する。第3章「臨床心理学研究における倫理」では,臨床心理学研究を進める上で避けては通れない問題,すなわち倫理問題について踏み込んで考えてゆく。秘密保持や事例発表の許可の取り方の実際ついて,筆者らの経験も交えて具体的に論じたが,研究の倫理は,今後,正確な実態調査を踏まえた上での検討を要する重要な課題である。本書で示した事項は,あくまでも著者らの限られた経験に基づく一試案であるので,これを叩き台として倫理問題をめぐる議論が活発になることを期待する。第4章「研究を進めるための6つのステップ」では,臨床現場で芽生えた問題意識を出発点に,どのように研究を進めていけばいいのか,その具体的手順を6つのステップに分けて解説する。第5章「先行研究の読み込み方」では,実務に追われる臨床家が限られた時間で文献検索し,先行研究の概観をまとめるためのコツを紹介している。第6章「研究発表のスタイル」では,研究成果を学会発表・学術論文のスタイルにまとめ上げるためのポイントを,NG例と模範例の対比によって詳しく解説する。第7章「臨床心理学研究の面白さ」では,読者の研究に対する動機づけが高まることを願って,研究の醍醐味について述べる。
 執筆の分担は,第1,2,3,5章が津川,第4,6,7章が遠藤であるが,すべての章を草稿の段階で互いに何度もチェックし,率直な意見交換を行って仕上げた。題材としてロールシャッハ・テストを用いた研究を数多く取り上げた。その理由は,本邦の臨床心理学界において最も歴史ある研究がロールシャッハ研究であり,量的研究の代表となっているからである。
……(中略)……
臨床の知を積み上げ,共有する研究という地道な営みを忘れた学問は,ブームが去ればやがて消えてしまう。臨床心理学が時の流れのなかで進歩・発展し,「心の専門家」が着実に社会に根を下ろすことを願ってやまない。

2004年 春 遠藤裕乃