あとがき

 デロリアンに乗って時空を飛び回っていたマイケル・J・フォックスは,パーキンソン病とともに生きている。発症後,最愛の家族と食事をするのさえ避けるような,荒れ果てた生活から立ち直った経緯について,彼はインタビューで次のように語っている(毎日新聞(東京版),2003年1月6日)。
記者:立ち直るきっかけは何だったのですか。
マイケル:93年暮れにセラピスト(心理療法の治療士)を訪ねるようになり,少しずつ自分が変わっていった。簡単に地図でたどれるような自己発見の旅じゃなかった。
 このように,心理カウンセリングを受けた本人が語ってくれることには意味がある。心理カウンセラーが「感謝された」「役立った」などと連呼しているより,臨床心理学的援助に効果があった実証的資料としてはるかに強い。
 しかし,本人が語れない場合も多いし,あえて本人以外の者が語ることの方がより本質的にその人を残せる場合も多いように思う。精神医学の教科書を書いた人物が,精神病水準のうつ病になり,精神科病棟に入院するという凄まじい著作もあるが,それは稀なケースである。
 本人以外の者が語ることの効力を証明する一冊が,私にとってはキューブラー・ロスによる最初で最後の自伝である。本の中には複数の患者が登場する。たとえば,白血病のエヴァ。その最後を読むと今も泣けてしまうので,本は開かずにこの原稿を書いている。でも,キューブラー・ロスが彼女のことを記録して世に残してくれた事実に,心から感謝の念がわきおこる。
 そして,瀕死のエヴァを語れるのはエヴァ本人ではなく,待合室にいた両親でもない。キューブラー・ロスという対人援助専門職者の身体を通さなければ,こういう語りには,ならなかった。そして,キューブラー・ロスが書かなかったら,エヴァは残らなかった。エヴァが残ることによって,時代も地理も違う一人のアジア人である私が,かくも学ぶことができるのである。
 現役医師がずっと診療を続けるように,臨床心理職者もずっと援助活動を続ける。実験をしない実験心理学者がいないように,臨床心理職者も臨床心理学研究を続ける。その代表が事例研究である。加えて,対象者や関係者に非礼ではないかと誤解されることを怖れるが,掛け値なしに研究は「楽しい」。
 もちろん,マイケルが語っているのは事実であって,「心理カウンセリングで自分の内界を整理する」などといっても,一秒や二秒でできることではない。心理カウンセラーにとっても長い旅である。私がいつもイメージするのは,山登りをしている2人の姿。登山者はクライエントで,私はシェルパ。体力が消耗していれば代わりに荷物を少しもったり,知っている道があれば案内したりもするけれど,基本的に登山者本人が歩いてくれないことには,山頂(=2人の目標)には達しない。ときには2人で道に迷いかけたり,お腹が空いたり,いろんなことが行程で起こる。たくさんの思いをシェルパもする。何度,同じ山を登っても,まったく同じ行程はあり得ない。しかし,おおよその道標や道筋・予測される危険などの情報は徐々に定かなものとなっていく。
 それらが,事例研究=ある学術論文として成就するのは,得難い「楽しみ」である。クライエントが生きた思いと,援助職としての対応が残り,そして,それがまだ見ぬ他のクライエントに役立つのである。実学としての臨床心理学を積み上げて培ってゆくことこそ,クライエントへの真の責任の取り方ではなかろうか。

2004年 早春 津川律子