推薦の言葉

 ギャバード,レスター両博士が,この本で成した仕事は非常に独創的なものだ。精神分析において長らく非常に切実な問題であった境界の問題に,このように取り組んだ本は他にはない。
 他の精神療法よりずっと頻度は少ないとはいえ,精神分析においても境界侵犯が珍しくないことは一般に知られていた。しかしそれについてただ知っているだけであることと,それについて何か対応しようとすることは全く違う次元の問題だ。ギャバード,レスター博士はこの問題に対応した。そして彼らの専門性は,さらに豊かなものになった。
 中には次のように批判する人もいるだろう。精神分析は外部からの批判にさらされているというのに,内部からそれを批判するのは賢明ではないと。しかし問題に蓋をして済ませるというのは,精神分析の精神に調和しないやり方だ! この問題を分析し,その改善をめざすのがこの本なのである。
 注目すべきなのは,こうしたセンセーショナルな問題にも,著者らが決してセンセーショナリズムに陥らずに論じることができている点にある。著者らは境界や境界侵犯という問題に歴史的に迫り,過去と現在の両方から注意深い考証を加えている。著者らのいう「境界」には二つの意味が含まれる。一つは,分析状況における患者と分析家のあいだの境界。もう一つは,患者と分析家双方の内面における,自我と抑圧された無意識のあいだの境界だ。
 著者らはそうした境界を,厚い境界,薄い境界といった物理的な比喩を用いて概念化している。またこの本はタイムリーである。というのも近年の認識では,分析家は分析状況に関与しながら観察しているのであり,また被分析者が転移にさらされるのと同じように逆転移にさらされる存在なのであって,決して全知で超然として白紙の状態にある人ではないとみなされているからである。またこの本は,エディプス状況のファンタジーとタブーが有している力と普遍性を,タイムリーに思い起こさせてくれる本でもある。
 ギャバード,レスター両博士は,深刻な問題へ注意を喚起するだけではなく,境界逸脱が発生する精神力動についても示している。さらに精神分析の教育を通じて,そうした逸脱を予防することの必要性も強調している。また,患者とのあいだで性的境界を逸脱する分析家によく認められる病理をタイプ分けしているが,その中でギャバードとレスターは,非常にまれな精神病ケースと,頻繁にみられるケース―サイコパスや性倒錯をエナクトメントするケースや恋わずらい,そしてマゾヒスティックな行動化など―を区別している。これらに関する詳細な描写は説得力があるもので,両博士は境界侵犯が生じる際には,分析家の自己愛の病理が頻繁にみられることを指摘している。このうち「恋わずらい」のカテゴリーは自己愛の病理を反映したものだが,おそらく精神病とパラフィリアの人の重篤さとは異なり,予後は本来的によいということも示している。
 両博士があらためて認識させてくれるのは,精神分析的な枠組みのユニークさだ。この枠組みは,患者の個人的な情緒体験を包み隠さず完全に伝えることを促進するが,この過程の中で,エディパルな関係が象徴的に再現される。このようにして分析的設定が,インセストタブー,エディパルな誘惑,そしてこのタブーをやぶることにまつわる去勢と死への象徴的な脅威を再現する。このエディパルな関係性は,無意識的なファンタジーを徹底的に探求するのに適した枠組みの中で象徴的に再現され,そしてそこではエディパルな願望を直接満たすことはいつまでも禁じられることになる。
 分析的状況にそなわる安全な雰囲気の中で,これらの人間の深い葛藤を探求する可能性がうまれるが,しかしその裏では患者にエディパルなファンタジーを実演することへの誘惑が宿り,そして分析家の逆転移にもそうした誘惑が宿ることになる。さらにこの誘惑に加えて,インセストタブーを破ることによって自己愛的な万能感が満たされる危険性―つまり,万能的な思いを抱いて両親の親密なつながりへと侵入し,その戦いに勝利するというファンタジーを実演することの危険性―が,分析状況を重大な危機に陥れることにもなる。その際,患者の自己愛的な病理によって危機がもたらされるだけでなく,分析家の未解決な自己愛的病理もまた危機を招来することになる。
 ギャバードとレスターは,分析家の孤立や,人生の中での重大な喪失に直面すること,そして自己愛的な領域をまきこむ突然の危機が,彼らのいう「恋わずらい」症候群をいかに活性化してしまうかを巧みに描き出している。
 ここでギャバードとレスターが提示している理論的枠組みは,精神分析を実施するために必要な条件を,分析家が(自らの力動的な無意識との間で)もつ内的境界や(精神分析状況における間主観性の中でもつ)外的境界の「厚さ」「薄さ」という視点から,さらに深く分析していくのに役立つ。たとえば,このようにいえるだろう。精神分析的な共感能力は,分析家の外的境界の「厚さ」―つまり分析家が治療的役割にしっかりとどまることができること―と,内的境界の最適な「薄さ」―自分の無意識的過程に開かれていること,及び自分の逆転移を探索する自由さをもっていること―を意味している,と。あるいは,次のようにもいえるだろう。分析家の内的境界の「厚さ」―自分の本能のニードを適切にコントロールできること―と,ある特定の外的境界の「薄さ」―転移と逆転移の中で展開する投影同一化の相互作用に開かれていること―とがうまくマッチすることが,退行的なエナクトメントへの誘惑にかられることなく患者に対する共感を促進するのに有用だ,と。どんな場合でも,分析家の性格特性においてギャバードとレスターの定義した意味での「厚さ」と「薄さ」のバランスがうまくとれていることが,境界侵犯の危険に陥ることから分析家を守ってくれるのである。
 境界侵犯の予防とマネジメントについて,著者らが行う推奨は特に挑発的で刺激的なものだ。彼らが強調しているのは次の二点である。まず候補生のトレーニング経験の中に,精神分析の専門家による倫理的側面の探求が含まれることが重要だということ。そして,性愛的な逆転移の正直な探求を促進することが重要だということ。私もこれまでみてきたことだが,性愛的な逆精神分析における転移を率直に探求する意欲をくじく雰囲気がインスティテュートに蔓延していると,コントロールされていない,あるいはコントロールできない境界侵犯が増加するように思われる。
 うわさとして広まったり,あるいは実際に行われたことが確実な境界侵犯を,インスティテュートや協会という設定の中で適切にマネジメントすること。そこに含まれるやっかいな事態や困難についても,ギャバード,レスター両博士は思慮深く指摘している。私が彼らの指摘に付け加えるとすれば,現在の困難として次の点があげられよう。それは,われわれの訴訟文化によって生じている諸問題―経済的な利益を得るために,苦情に対する賠償金を搾り取ろうとすることへの誘惑―であり,そしてその過程が被害者と加害者両者をいかに腐敗させ,そして境界侵犯に対処しようとする誠実な努力をいかに官僚的な悪夢へと堕落させているか,という点である。われわれは非倫理的な臨床家から患者を守らねばならないのと同時に,サイコパス的な転移の行動化から臨床家を守らねばならない。個別ケースを正当に取り扱うということは,明確な倫理的基準をもちながらも組織の柔軟性を大切にして,サイコパス的な搾取にさらされるような事態も,また組織が官僚化して身動きがとれないような事態も避けていくことだ。そして何より著者らが考えた予防的措置と,彼らがこの本で示した痛みをもたらす問題を誠実に認めることが,精神分析の不幸な副産物―この高い効果をもつ可能性を秘めた治療を,「放射能」にしかねない副産物―を減らすことに役立つはずだ。たとえそれを完全に無くすことはできないとしても。

オットー・F・カーンバーグ,M.D.
ニューヨーク病院ウェストチェスター部
コーネル・メディカルセンター・パーソナリティ障害研究所所長
コーネル大学医学部,精神医学教授
コロンビア大学精神分析(訓練・研究)センター,訓練分析家,スーパーバイザー