「はじめに」より

 20年あまり間,思春期の臨床を行ってきた中で,私のなかでいくつかの基本的な考え方ができたきたように思う。
 当初は,青年を「治す」治療を考えていたが,今は「治す」のではなく,青年自身が「治す」のを援助する,あるいは青年が自然に「治る」のを援助するのが,私の仕事ではないかと思うようになってきた。そうするとそれまでの力んだ姿勢がゆるみ,少ししなやかさがでてきたように思う。同時に,悩みや苦しみがない状態が目標ではなく,悩みや苦しみをしっかりと感じながら,それも人生の一部として受けとめ,感じていくことが一つの目標であるとも思うようになってきた。また,自分ひとりの力で生きていくという実感といろいろな人に生かされているという実感とが,一つの硬貨の表と裏のように感じられることが自立というものではないかとも感じるようになった。
 理想の治療者に自分を近づけようとしていたが,ある時から自分は「不完全」な治療者とこころを定め,その自分にできる治療や援助とは何かと考えるようになった。治療者が自身の「不完全」を見つめ,受け入れることが,青年が「不完全」な自分を受けとめられるようになることにも通ずるのではないかとも感じている。また,治療者の迷いや戸惑いをすっきりと整理するのではなく,迷いや戸惑いを抱きつづけることこそが大切であるとも感じるようになっている。親や教師などの青年に関わる人たちにも,「まるで本に書いてあるような」実際にはできない助言をするのではなく,その人たちがあまり無理をしないでできることは何かと考えるようになった。なんと多くの本に,できないことが当然のように書かれていることか……。
 昔からのブラック・ユーモア,「手術は成功した。しかし残念ながら患者さんは亡くなった」というようなことが精神医療でも起こりうる。「見事な精神療法。しかし青年の現実はより困難な方に向かった」などというように。精神症状は苦痛なもので,青年の精神症状が改善することは大切であるが,同時にどんな時でも,青年の現実の「人生の質」を向上させるという「本来の目的」を視野にいれておかねばならないと思う。また,治療者はおとなというもののモデルの一つでもある。自分の人生を肯定的に捉え,しっかりと楽しもうとしている治療者と出会うことが,青年が自分の人生を楽しむことに一歩足を踏み出す契機になると思う。
 そして,自分の人生を楽しむことと,人が人生を楽しむのを妨げないことと,更には人がその人の人生を楽しめるようになることを応援することとを,一連のもののように感じている。「自分の何かを満足させるために」治療するのではなく,また,誤解を恐れずに記せば,「青年のために自分を犠牲にして」治療を行うのでもなく,もっと淡々とした治療が大切なのではないかとも考えている。

「思春期は大切だけど難しい。やはり,専門の先生に診てもらいたい」という臨床家の言葉を聞くことがある。しかし,思春期臨床は決して一部の専門家の難しいものではなく,臨床を行うすべての人のものである,というのが私の考えである。思春期は生命の花の咲き始める,力のあふれ出る時期である。さまざまな領域のさまざまな臨床家が思春期を自分の仕事の一つとして取り組んだとき,その結果としての「雑多性」が治療的な活力をつくるのではないかと思う。逆に,成人期や老年期を診ることも,思春期のさまざまな病気や問題を「人生」という大きな流れの中に位置づけて見ることを可能にするのではないかと考える。本書の第一の目的は,さまざまな現場でさまざまな臨床を行っている方々に,また,これから思春期臨床をはじめようとする方々に思春期臨床を身近に感じてもらうことにある。もちろん精神科医だけではなく,心理,福祉,教育,司法などのさまざまな領域の方々にも,もっと思春期臨床を身近に感じてもらいたいと思っている。
 思春期の病気や問題は変化しやすい。中には病勢が強く,さまざまな手だてをつくしてもその病勢に歯止めをかけられない場合もある。しかし,思春期の発達という「追い風」をうまく帆に受け,自らの力といくらかの臨床家の手助けとで乗り越えていく青年たちをも多く彼らを見ることは,臨床家が自らの仕事に悲観,絶望することを防ぎ,臨床を続けていく希望を与えてくれるものである。親が子どもによって親に育てられていくように,自分とは,人生とはの問いの凝縮した思春期で,臨床家も青年によって育てられていくところがある。そういう意味でも思春期をすべての臨床家の仕事の一つとしていただきたいと思うのである。

 本書は,私がこれまでに記した論文をもとにはしているが,大幅に加筆修正した。できるならば部分,部分の寄せ集めとしてだけではなく,全体として「何か」を伝えるものになればと考えたからである。私は臨床家を志したとき,体験したことを,自分の頭で考え,自分の言葉で,それも,平易な言葉でできる限り表現しようと考えた。臨床においては平易な言葉でやりとりすることが,何よりも大切と思えたからでもある。また,自分の臨床が一人よがりにならないように,先人の本とこころの中で対話をしたり,師や先輩,同僚と対話したりして,自分の考えを対象化し,相対化するようにも試みてきたつもりでもある。しかし,言葉に,文章にしたとたんに,私のなかの曖昧なもの,雑多なものが,いかにも明確なものとして見えるのではないかと心配している。私自身は絶えず,戸惑いやためらい,そして迷いの中にいる。
 本書に特徴があるとすれば,日々,青年たちと出会う臨床家としての私が見たもの,実感したものを中心に考え,記してきたところだと思う。それは,同時に私という生身の人間の偏りや至らなさというフィルターがかかっているということでもある。臨床現場はすっきりと整理できないこと,理論で説明できないこと,矛盾したことに満ちている。そのような中で,その時,その時,手探りで自分なりの解答を見つけようとする・・,それが,実際の臨床というものではないだろうか。治療にたった一つの正解というものはないし,ある時の正解が別なときには大きな誤りになることも少なくない。本書が思春期は専門ではないと考えている臨床家に思春期も自分の仕事の一つと思う契機になることを,又,思春期をこれからはじめようとする臨床家には少し前を歩いたその足跡を知り自らの道を探る契機となることを,そして思春期を専門にされている臨床家の方にもいくらかの自分とは別の視点を感じるものになることを,こころより願ってやまない。