あとがき

 糖尿病の治療は先生の言いつけをよく守って,お薬の服用やインスリン注射をきちんとすることです,このように習って患者さんは治療されているものと思っていた,そう今も思っている医療者は多いのではないでしょうか。
 医療者は医療者で,患者さんの治療の結果の全責任を負っているのだという責任感を強くもっているために,どうしてあの患者さんはうまくいかないのだろう,他の患者さんではうまくいっているのに,という思いにかられてしまいます。うまくいかない患者さんの割合は少なく,うまくいっている患者さんの割合が多いので少しは自分の診療には自信を持ちながら,そしてどうしてだろう,どうしてだろう,と悩みながら,時間が経過してしまう。
 典型的な例は,インスリン治療です。インスリン受容体の異常,細胞内のシグナル伝達に異常がなければ,インスリンは効くはずです。注射量を増やせば効くはずです。ところが,そうにはならないのですね。このことは毎日の診療現場でよく遭遇する光景であります。
 忘れもしない平成6年の5月,日本糖尿病学会が徳島市で開催された日でした。九州大学病院心療内科(当時)の野崎剛弘先生にばったり出会い,困っていた1型糖尿病女性患者さんの話を何気なく相談したことです。「そりゃ,先生では無理だ,心療内科医が診なくちゃ。自分は留学するのでいなくなるが,瀧井という優秀なのがいる。彼にその患者さんを紹介してください」。
 しかし,それだけで患者さんは九大心療内科を「ハイ」といって受診してくれません。心療内科的な問題があると医療者がわかっても,患者さんはそのような問題を自分が抱えていることをわかってくれないことが多く,この固執したものを抱えていることがアイデンティティでもあるので離そうとしない,よって治療に乗ってこない。つまり,心療内科に受診することをけっして受け入れないのです。たとえ,過食していることを自分から言えるようになったとしても。
 「でも,自分ではできないよね。食べてしまうんだものね。前回のときも自分でやってみますと言ってくれていたけど,むずかしかったね」
 「先生,今度はちゃんとしますから。今度はちゃんとしますから」
 この会話を何年間繰り返し続けたことか……。
 さらには,「何度,こんな会話をしているかしら。2年になるかなー」
 「3年くらいになります……。今度は信じてください,食べるのを止めますから」(血糖コントロールより大事なものと信じている痩せ願望をもつ過食症の1型糖尿病女性との会話)。
 瀧井先生にお願いした患者さんはもう200人近くになりました。最近は,「九大心療内科に受診します,と患者さんに決心してもらった時点で,治療の山の6合目には来ていますよ」,と瀧井先生からお声をかけてもらえるくらいになりました。先生の返信のお手紙,退院サマリーは,私の教科書です。もう8冊になりました。
 待ちに待った「瀧井先生の心療内科学」がここに出版されます。平成6年から,瀧井先生とともに,道なき道をご一緒した者として感無量の思いです。糖尿病と一緒に歩むという道のりに,医療者は患者さんの伴走者として,時にはゆっくりと時には軽やかに一緒に歩んでいけたら,と願っております。

東京女子医科大学糖尿病センター
センター長 内潟安子


糖尿病の心療内科的アプローチ:あとがき
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あとがき

 患者さん達との素晴らしい出会いの数々,支えてくださった多くの医療関係者の皆さん方,そして,九州大学病院心療内科という他では考えられないような恵まれた治療環境なくして,本書は生まれることはなかったと思われます。
 おおよそ20年間にわたり,筆者は糖尿病とうまく付き合えない患者さんの臨床に取り組んできました。「こころと身体の両面から,患者さんを全人的に理解し治療する」という,心療内科の理想というか夢を思う存分追及させてもらいました。夢は夢として適当にやっていくのが普通なのかもしれませんが,馬鹿正直に取り組むことによって,見えなかったものが見え,不可能と思われたことが可能になったこともあったのではないかと思われます。
 幸運にも出会うことができた患者さん達のこころの真実をできるだけ多くの方に紹介したい,そして,真実に触れることから生まれた理解やアプローチ法についてお示しすることで,患者さん達の糖尿病とともに生きる人生を少しでも明るいものにできたらと願って,本書をまとめさせていただきました。
 Ⅰ部の「総論」では,糖尿病の心理面についての筆者の基本的な考え方を述べました。Ⅱ部の「治療経過」では,4名の糖尿病患者さんの治療経過を詳しく紹介しました。Ⅲ部の「心理的援助のポイントとQ&A」では,主に一般糖尿病臨床現場で働く医療者に役立つことを願って,当科の「外来カウンセリング」の実例とその要点の解説,および,看護師および若い医師とのQ&Aによる対話を紹介させていただきました。
 紙面全体の半分以上が,Ⅱ部の「治療経過」で占められています。ここで取り上げられている4名の患者さんは,それぞれ解決困難な心理的問題を抱え,当科において心身両面の専門的治療が行われました。このような治療を一般の糖尿病治療者が行うことは難しいと思われます。それでもなぜ彼らの治療経過を紹介したかと言いますと,一つは,大きな問題を抱えているからこそ治療の過程で糖尿病患者さんのより深いこころの真実が明らかになり,それを知っておくことが,一般の糖尿病関連の医療者にとっても必要なことであると思われたからです。もう一つは,治療経過の中で示した患者さんへの理解の仕方や一つひとつの対応は,Ⅰ部「総論」で述べた基本的考え方を具体的に示したものであり,Ⅰ部をより実感を持って理解したり,さまざまな臨床場面で応用したりする上で,役立つのではないかと考えたからです。
 筆者が糖尿病の臨床に関わるようになった20年くらい前には,糖尿病患者さんの心理とか心理面へのアプローチについて,それが重要であるという認識は,我が国ではまだ一般的ではなかったと思われます。しかし,今日では一般糖尿病臨床現場においてもその重要性が認識され,患者さんの心理的側面への関心が高まっています。心療内科で糖尿病の臨床をやっている筆者にも,しばしば講演依頼などのお声がかかり,本書の内容も,そういう場でお話しさせていただいてきたことを骨組みとし,肉付けしたものです。
 ところで,本書の題名は,「糖尿病の心療内科的アプローチ」となっておりますが,心療内科一般で糖尿病について,本書に書かれているような考え方がなされ治療が行われているかと言えば,必ずしもそういうわけでもないかもしれません。糖尿病という疾患は心療内科が最も力を発揮しやすい分野の一つだと思うのですが,まだ本格的に関わっている心療内科医はそれほど多くないようです。本書は,九州大学心療内科という恵まれた場所で,心療内科でできることを精一杯追求させていただいた,その軌跡を記録したものだと考えていただければいいのかもしれません。
 心療内科においてとても大切にされていることの一つに,「傾聴」があります。患者さんの話をしっかり聞くことから,患者さんのこころの現実が見えてきて,それに沿った解決の方向が浮かび,共通目標に向かって進んでいくことができます。心療内科ではまた,「受容,共感」ということも,大切な治療的態度だとされています。(心療内科といいますと,患者さんの訴えをそのまま「受容,共感」し,不安や悩みをただ軽減させるだけの「優しい」治療というイメージがあるかもしれません)。しかし,本当の「受容,共感」は,患者さんのそのままの訴えや悩みに対してではなく,それらの言葉の背後にある深い思いに対してなされるべきだと,筆者は考えています。はたして患者さんがここにやってきた本当の理由は何なのだろうかと,考えてみることが大切だと思うのです。
 例えば,「低血糖が怖い」という主訴の場合でも,本当のこころのうちをじっくり聞いて理解していけば,「自分が糖尿病であることを周りの人に知られて,偏見の目で見られることが怖かったり」「インスリンを必要なだけ注射すると太ってしまうと考え,太るのを避けるためにインスリン注射の量を減らしてほしい」ということだったりするのです。
 患者さんの訴えが必ずしもまだ本当のこころのうちを示していないと思われる場合,その背後にある患者さんのこころの真実を明らかにしていく必要があります。そのような患者さんのこころに届くためには,より一層の真実に近づくための対応や,真実からの回避に同調しない対応など,治療者と患者さんのこころのせめぎ合いがあります。それは患者さんにとっても治療者にとっても楽でない道のりかもしれません。しかし,そのようにしてはじめて,治療のポイントに近づいていけるのだと思われます。
 筆者が最も「受容,共感」したいと思うのは,「糖尿病にも人生にもどう対応していけばいいのかわからない,何とかなりたいのだけれどどうにもできない,こころの底で絶望している」患者さんのこころなのです。糖尿病とうまく付き合えない患者さんは,誰でもこころの底にそのような思いを持っているのではないでしょうか。このような深い思いに「受容,共感」することにより,患者さんのこころの真実,深い悲しみに触れることができ,その悲しみに対して何かができるかもしれない位置に,治療者は立つことができるのではないでしょうか。


 本書は,患者さんとの実際のやり取りや治療経過を中心に紹介し,さまざまなエピソードも多数交えています。それらの治療経験を与えてくださったたくさんの患者さん達に,特に今回治療経過などを紹介する許可をいただいた患者さん達に感謝します。荻原友未さんと増田さゆりさんは,かつてそれぞれ共著を出版させていただきましたが,本書にもその作品を提供してくださいました。
 松木邦裕先生は心理臨床における理解者として,内潟安子先生は糖尿病臨床での理解者として,最も力強く支えていただきました。お二人に推薦の辞,序文を書いていただけたのは,何よりの喜びでした。
 当科の歴代の教授,中川哲也,久保千春,須藤信行の先生方は,九州大学心療内科という最高の臨床の場で,思う存分治療に打ちこませていただき,暖かく見守ってくださいました。玉井一先生は,当科において糖尿病の心理社会的側面の研究の伝統を築かれ,筆者にその扉を開いてくださいました。
 野崎剛弘,河合啓介,高倉修,森田千尋,波多伴和,権藤元治,横山寛明,神谷博章など,研究室の同僚,後輩の先生達は,共に治療にあたる仲間として,またディスカッションの相手として,大変頼もしく筆者を支えてくれました。病棟の看護スタッフは治療の最大のパートナーであり,彼女達の質の高い看護は,治療が成り立つためになくてはならないものでした。
 糖尿病診療の手ほどきをしていただいた北九州医療センター糖尿病内科の先生方,行動療法という有用な治療をご教授いただいた野添新一先生をはじめとする鹿児島大学第一内科の先生方,患者さんを多数紹介してくださった全国各地の先生方にも,お礼を申し上げます。
 本書作成にあたって,神谷博章医師,尾崎洋子看護師,井坂吉宏医師に,原稿へのご意見やQ&Aの質問の作成でお世話になりました。
 金剛出版の立石正信氏,伊藤渉氏には,さまざまなお願いに対して辛抱強く柔軟に対応していただきました。
 その他,紙面には書き尽せませんが,本書作成に関わる協力をいただいた多くの方々に,深謝いたします。

2011年11月
瀧井正人

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