はじめに

 本書は臨床心理学を学ぶ学部学生,前期及び後期博士課程の学生,就職後二,三年程度の初心者の方々を対象に編集された統合的心理療法の入門書である。
 そして大変欲張りではあるが,この一冊で統合的心理療法の概要がある程度把握できることを意図して編集されている。
 現在,心理療法は百花繚乱の観を呈している。何を学べばよいのかよくわからなくなるほど選択肢が多い状態にある。では,一体どうすればよいのだろうか?
 そのような問いに答えることが本書の役目である。編者の答えは唯一つ。村瀬嘉代子先生がその生涯をかけ,心血を注いで開発してこられたアプローチを深く学ぶ中にこそ,これからの日本の心理療法が向かうべき方向性が見え,次世代を担う若手の臨床家が取り組むべき課題も明確になると考えている。答えはわれわれのすぐ眼の前(手元)にあるのだ。あとはわれわれの理解と行動次第である。本書はこれから統合的心理療法を実践してゆこうとする方々にとって,良き羅針盤のような働きを示してくれるはずである。
 統合的心理療法は,村瀬嘉代子先生(現北翔大学大学院教授,大正大学名誉教授)が長年の思索と実践の中から編み出されてきたアプローチの総称である。その詳細については,既に村瀬先生ご自身が数多くの著作群の中に示されているので,それらを実際に手にとって読まれた方も多いことだろう。
 編者の知る限り,統合的心理療法が実践された分野は,産業臨床領域を除く他のすべての領域に渡っており,しかもその中には,従来の心理療法がほとんど省みることがなかったような分野(たとえば,重度の自閉症児などの発達障害を抱えた子どもたちや重度重複聴覚障害者の方々への関わりなど)も数多く含まれている。また,その著作群を改めて読み直してみると,今日では既に常識となっているようなアプローチ,たとえば地域の他職種などを含めた治療的資源等の活用(治療的連携,コラボレーション),不登校の子どもたちへの治療的家庭教師の派遣,重度な青年期境界例の青年たちへの生活臨床的な関わりなどが,20年前から30年前の段階で既に創案,実践され,治療上も大きな成果を挙げている。その先進性,独創性の高さには,今更ながら驚かされる。村瀬先生が,日本における心理療法の開拓者の一人として常に第一線の仕事をされてきたということがそのことだけからでも十分読み取れよう。
 しかし,その業績の幅広さのゆえか,あるいは統合的心理療法として紹介された数多くの事例群について,村瀬先生ご自身が治療者としての深い読みや意図,治療戦略等について非常に控えめに,しかもさらりと説明をされておられることなどとも相俟って,その全体像を深く理解することは決して容易なことではない。またその学習方法についても,たとえば認知行動療法のように,基本とされる理論と技法がかなり標準化されており,何をどう学べばよいのか,どこまで学べばよいかが明確化されているアプローチとは異なり,到達目標が明示されているわけでもない。その意味においてわかりにくい部分があることも事実であろう。
 これらの要因が輻輳した結果,一般的には統合的心理療法への理解が表層的なものに留まり,村瀬先生という稀有なセラピストのみが為しえた名人芸としてのみとらえられる傾向にあることを編者は危惧している。確かに,数多くの著作群に示された実践は,村瀬先生という卓越した治療者の存在なしには考えられない。これは誰しもが納得する事実であろう。しかし,われわれは本当にそこで思考を停止させてしまってよいのだろうか。常々村瀬先生が指摘される物事の「普遍性と個別性」という観点から考えてみると,個別性(村瀬先生の個人的特性)のみに眼を奪われることは物事の全体性を見失うことにつながるのではないかと思われる。統合的心理療法の成立の原点となったのは,優れた心理療法には,理論や学派を超えた共通点が存在するというものであった。その共通点,つまり心理療法のもつ普遍性の追求にこそ,われわれは眼を向けるべきではないだろうか。その普遍性の解明と獲得への飽くなき探求こそが,今後われわれが為すべきことなのではないだろうか。村瀬先生が示された実践を,金科玉条のものとせず,絶えず批判的に検討し,その中から未来への課題を抽出し,自己の実践へと結び付けてゆくことが,後輩であるわれわれに委ねられた大きな課題であると考えられる。
 しかし,それは決して絵空事ではなく,各自が自分自身の持ち場(フィールド)で取り組んでゆくことによって十分に可能だと思われる。
 編者は,1993年に大正大学大学院に臨床心理学専攻課程が設置された時の第一期生として,入学して以降から現在に至るまで,長きに渡り村瀬先生のご指導を仰いできた。編者にとって村瀬先生は,恩師でもあり,最も尊敬するセラピストである。しかし,正直に申し上げれば,私自身も当初は統合的心理療法をよく理解できていたとは言いがたい状況にあった。それは今でもそうかもしれないのだが……。もちろん,指導教官である村瀬先生の著作群には大学院入学前から可能な限り眼は通していたつもりであったし,すごい実践がそこに記されていることに気付いてはいたのである。ただ,大学院在学中は自分自身の修士論文や博士論文のテーマを追求することに眼が奪われており,統合的心理療法について正面から向き合うということは,ほとんどなかったように思われる。しかし,大学院終了後,4〜5年が経過した辺りであったろうか。村瀬先生の主催される夏合宿(村瀬ゼミ)において,「統合的アプローチの特質について考えて報告して欲しい」との依頼がゼミの主催者より舞い込んだ。ゼミで発表し,ディスカッションに耐えうるものにするためには,当然のことながら,村瀬先生の著作群を読み込み,分析し,考察しなければならない。そこからであった。筆者が統合的心理療法について真剣に向き合い始めるようになったのは。当然の結果ではあるが,著作物を何度も何度も読み直し,読めば読むほど面白くなった。そして私は自分のすぐ足元に,素晴らしい宝物が埋もれていたことや,それをほとんど見過ごしていたことに,今さらながら気付かされた。恥ずかしながら,ようやく,その真価がわかるようになったのである。灯台もと暗しとはまさにこのことであった。
 村瀬先生は戦後の間もない時期に米国に留学され,欧米の心理療法を直接身をもって学ぶ機会を得られている。そこで数多くのアプローチについて知悉されつつも,それらの理論や技法の単純な理解や臨床事例への適用を潔しとはされなかった。常にわが国の文化や風土に合わせた独自の工夫を数多く積み重ねられ,今日われわれが知ることができるようなアプローチを創りあげられてこられた。村瀬先生の歩みは,戦後の日本の心理療法の発展の歩みと軌を一にする。そしてその実践には,戦後の日本の心理療法が,欧米から輸入された心理療法を消化しながらも独自の発展を遂げ,世界に誇るレベルの成果をあげるまでに至った最高到達点の一端が示されていると編者は考えている。
 このような経緯から,編者は統合的心理療法の本来の素晴らしさ(本質)を,より多くの方々が理解され,是非試みていただきたいと心から思ってきた。大変におこがましいことかもしれないが,これが編者の偽らざる気持ちである。
 幸いにも,筆者のそのような思いは,大正大学大学院での私の特別講義(統合的心理療法の特質に関する講義)を聴きにきておられた金剛出版の立石社長によって,早い段階で聞き届けられることになった。立石社長からのご依頼は「村瀬先生の統合的心理療法の本質を,その道の初学者の方々にもわかるように解説して欲しい」ということであった。筆者にとっては望外の幸せではあったが,そこからが悪戦苦闘の始まりとなった。どうしても肝心の文章が書けないのである。呻吟している内に,あっという間に,月日だけが流れていってしまった。本書の執筆の依頼を受けてかれこれ5年以上もの月日が流れてしまったのは,一重に筆者の怠慢と力不足以外の何者でもない。ここに,深くお詫びを申し上げるとともに,長きに渡り辛抱強く,執筆を見守ってくださった立石社長と村瀬嘉代子先生に深くそして厚く御礼を申し上げたいと思う。
 本書は大きく2部構成より成り立っている。第T部では,編者がこれまで考えてきた統合的心理療法の特質について多角的に分析を試みている。必ずしも,十分な分析や考察ができているとは言い難い部分も多いが,本文中には,統合的心理療法と他の主要な学派の心理療法との特徴比較をした表や村瀬先生の個人史と統合的心理療法の発展の歴史を記した年表等の資料も加えてある。是非参考にして欲しい。
 第U部は,村瀬先生の膨大な著作群の中からのセレクト論文集である。村瀬先生が金剛出版から刊行されてきた多数の論文集の中から,本書の主旨に照らして最もふさわしいと考えられた13編を編者と金剛出版の立石社長とが協議しながらセレクトした。推敲に推敲を重ねて選び出した珠玉のものばかりである。本来は,統合的心理療法の特質を正確に把握しようとするならば,村瀬先生が独自の視点から行われた数多くの調査研究にも眼を向けるべきである。なぜならば,本書の第一部においても述べたように,統合的心理療法は,臨床実践を積み重ねる中で芽生えてきたさまざまな問題意識(臨床仮説)を,大規模な量的研究を実施することで検証し,再度それを実践に還元するという往復運動によって質を洗練させてきたという歴史を持っているからである。しかし今回は,敢えて村瀬先生の初期の論文集から事例研究について書かれたものを数多く所収した。そのため,結果的には『子どもと大人の心の架け橋(改丁増補版)』と内容的に重複する部分が多くなってしまったのが,残念といえば残念ではある。しかし,初期論文集からの所収を多くした理由は,事例研究論文の中に村瀬先生の初期の問題意識が,かなり鮮明かつ簡潔に,そしてわかりやすく述べられている部分が多いからである。初期の著作物であるだけに,洗練されてはいない部分もある。しかし,その分村瀬先生が苦闘しながら論文の執筆に取り組まれている姿が,よく浮き彫りになっている。初心者にとっては,そこがかえって共感しやすかったり,考えやすいのではないかと編者は思ったのである。
 重ねて申し上げるが,編者のねがいは唯一つ。より多くの方々に統合的心理療法の真の素晴らしさをわかって欲しいということだけである。
 本書を手にとられた若き臨床家の方々が,これまでより一層,統合的心理療法に関心を持たれ,その本質を深く理解してくださることを切に願っている。
 そして,本書からの学びを得て,各自のおかれた臨床実践の場で,倦まず弛まず努力を続けながら,自分独自の統合的心理療法の創出に取り組んでみようと考えてくだされば,これに勝る幸せはない。

2012 年1月 新保幸洋