はじめに


 人生や仕事での主要な関心は,当初のわれわれとは異なる人間になることです。ある本を書き始めたとき結論で何を言いたいかが分かっているとしたら,
その本を書きたい勇気がわく,なんて考えられますか。ものを書くことや恋愛関係にあてはまる事柄は人生についてもあてはまる。(Foucault, 1982

 本書を書くことは,正にこんな経験だった。たとえば,元をたどれば2011年4月17日にある私の本書執筆動機が何であったか,奇しくも最終メールで名付けられたというのは大袈裟だろうか。終末期とはいえ,高橋規子さんは,その食道がんの占拠部位のために当初より窒息死,のちには喀血死のリスクがあったため,彼女が生き延びることができればできるほど,本書は,高橋規子論文集から「終末期を書く」フィールドワークへと形を変えていくはずだった。そして,それはおそらく可能な限り望ましい経過をたどったが,唯,
彼女が書く予定だった「はじめに」は得られず,私がこうして代筆している。
 2011年の6月6日から11月11日に至る30往復ほどのメール交換が本書の中心となった。その「われわれはどこへ行くのか」と題した第V部は,高橋さんが「終末期を書く」,つまり自らを対象にフィールドワークするのを,私が受け手になって記述していこうとしたものだ。過去を慈しむか,今を生きるかに大きく二分されるこの時期の人々の営みを彼女は自らが経験することで記述し,願わくば,将来,同じ事態を迎える人々や家族,そしてその援助にあたる人々の益するところになろうとされた。そのあくまでも個人的なプロセスも,読者の想像力次第で,少なからぬ普遍性を持つだろうと私たちは多少甘えたところはあるかもしれない。ただ,あくまでも当事者研究という枠においてこのような状況をナラティヴに記述する努力を続けたことは,ご承知願いたい。ディグニティセラピーというひとつの様式とは異なるフォームで,高橋さんのディグニティを守ることができればと考えたけれど,私は彼女の治療者ではなかった。第T部では,私たちの出自を明かした。記述の今につながる部分もあればそうでない部分もあるだろうが,書き手の視座を形作るにある程度,影響した事柄を読者に情報提供したつもりだ。また,第U部は,私たちの職業人としてのプロフィールだと思ってもらえれば,幸いだ。読者の多数を占めると思われる専門家には多少なりとも興味もあろうかと末尾に付した10本の書評は,ふたりが探求したナラティヴというものを別の角度から描写するだろう。
 臨床心理士や精神科医が死にゆく人に援助を向け始めたのは,まだまだ最近のことだ。果たして,私たちに何ができるのか。ディグ
ニティを守るメニューは豊富だ。その中で,どんな会話ができるか,それを私たちはここで試みてみたのである。
 2011年11月15日 高橋規子さんの訃報を受けた日に共著者が記す

Foucault, M.(1982)Truth, Power, Self: An Interview with Michel Foucault(25 October 1982). In Martin, L. H., Gutman, H., & Hutton, P.(Eds.)(1988)Technologies of the self: A seminar with Michel Foucaul(t pp.9-15). Univ of Massachusetts Pr
(. 田村淑,雲和子訳(1990)真理・権力・自己.自己のテクノロジー.岩波書店