おわりに

 終末期とはいかなる事態なのか。「余命半年」を号令に家族が再会し大団円を迎えるドラマが人々の涙を絞る一方で,ポックリ信仰の根強い人気にはそれを忌避する気持ちが滲んでいる。はたまた,西成彦のようにグレーゴル・ザムザに終末期患者を見る者もいる。いずれにせよ,E・H・エリクソンのライフサイクルに終末期はない。老年期を含めどこかで偶発的に追加されるオプションのようだ。しかし,更年期同様,生物学的基盤を持ちながら,それは言葉によって構成されていく。乳児期に終末期は接続しない。なぜなら乳児には言葉が未だ与えられていないからだ。その終末期ケアは家族ケアとなる。胎児なら水子供養へと引き継がれる。結局,私たちは,終末期患者なら同定できるけれど,「終末期」を理解していると言えるだろうか?分からないなら,お作法通りのインベントリーではなく,記述することから始めるのが,筋だろう。ウィークランドの言葉を思い出す。「最近では,調査というと,すばやく進めなくてはなりません。目的に向かってまっしぐらという感じです。私たちの調査は,違った方向にいく時間があってこそ,新しい概念やたくさんの事柄についての新しいアプローチを提供できるのです」。『終末期と言葉』,二転三転してようやく決まったタイトルは,高橋規子さんの当事者研究のそもそもの成り立ち,主題,そして展開を端的に表現している。
 本書第V部で高橋さんが果敢に挑んだのが,その終末期を書くという自己のフィールドワークであった。私が,その「会話」の相手を任された。メール交換とはいえ,そのペースはほとんど往復書簡のものである。ここに記述されたことは,外で仕事をもっていて,子どものいない,食道がんの40代既婚女性に限定されるのだから,自分とは無縁だと考えるのは,早計だろう。時系列上に沿って,言葉で終末期を構成することは,それほど容易なことではない。しかし,ここには緩和ケア病棟の利用,病いの秘密を管理すること,末期症状,以前のがん体験,尊厳モデル,緊急入院,家族との関わり,最後の会話,そしてホスピスと,終末期患者の多くが経験する事柄が順に並んでいるのだ。ちなみに,本書をV部構成にしたのは,高橋さんの終末期というものが,過去,現在,未来という流れの中で,刻一刻と現実化する未来であることを読者に実感してもらいたかったからだ。
 偶然の出来事が必然となるには,物語と語り,つまりナラティヴが要る。高橋規子さんが2011年11月13日に亡くなり,本書第V部が11月11日付けのメールで終結したことは,偶然ではあるが,その半年前からのやりとりがそこで終わるには何かしらの必然がある。少なくとも私にとってのそのようなナラティヴは11月10日のメールで表現されたが,今一度振り返ることで,彼女の冥福を祈りたい。
 当初より高橋さんは,終末期,看取りというものを劇的に描くことに疑いの目を向けていた。もちろん,その作品自体というよりも,それがあるべき姿として人々に信じられていく,その言説化の過程を問題視したのである。そして,彼女自身の最期に描かれた家族模様は,以下の通りだった。

ところが,これは多少驚くのですが,以来,親がほぼ毎日やって来ます。電車でも車でも結構近いことを発見したせいなのか,両方あるいは,都合がつく片方が,来て何をするでもなく,居ます。気が散るので何日か経った頃「なにをしに来ているのか」と直接的に尋ねたところ「顔を見に来るだけだから,気にしてくれなくてよい,勝手に来て勝手に帰るから。仕事で邪魔ならロビーにいるから」と「もう決まったことなのだ」と言わんばかりの口調で述べ,悪びれた様子もなく1時間ほど居て,「顔を見るだけ」の割には洗濯物を出させて持って帰っていきます。(2011.11.9 本書pp.178-179)

 この「顔をみるだけ」という表現には,「拒否することはかなり困難」と思わせるだけの普遍性があるのではないだろうか。レヴィナスの「顔」で主張される以下の文面が説得力を持つ。「まさしく自我を指定し,自我に要求し,自我に懇願する顔が,自我の責任を召喚する。そこにおいて,他者は自我の隣人となる」。高橋さんのご両親は,彼女の顔ではなく,レヴィナスのいう「顔」を見に来られていたはずだ。それは,親密さとか和解などという次元を越えた結びつきだったのだと思う。私にも心当たりはある。

私がこのようなこと(共同研究のこと)を申し出たのは,やはり,4月17日の評議員会で高橋さんの隣に座ったとき,まったく言葉をかけられなかったという,自分としてもかなりショッキングな体験にあります。がん患者さんには毎日会っているわけです。それどころか,現在,私はがん患者さんにしか会っていないのです。それが,突然,日常の場でのがん患者さんとの遭遇(当然,その時点で私は何も存じ上げず,一方,他の評議員の方々はごく自然に振る舞ってみえたので,どこかで公表されたのだとばかり思い込み,それが「知らなくて,ごめんね」という唯一のことばにつながったわけですし,公表されていなかった以上,現実的には何も口にしなかったことはむしろよかったとも思われますが)にうろたえたわけです。
 同じ評議員とはいえ,お会いしてもご挨拶する程度の関係であったとか,言い訳はいろいろできるわけですが,どこか私の倫理観に触れるものであったのは確かです。これが,共同作業の最大の動機です。自分なりに正しい応答をしたいということです。(2011.6.15本書p.87


 高橋さんのご両親は家族であり,私は彼女の共同研究者であるが,そこには,なんらかの倫理的契約があったはずだ。終末期は倫理抜きでは語れない。
 偶然はこれだけではない。高橋さんとわたしが静岡での学会でし損ねた「あたかも」の動機が最終メールにおいて,秋田でのワークショプでの「あたかも」において代替実現されているのである。高橋さんは「わたしたちがつくってきた症例を,他の専門家に対してどのように開いていくのがよいだろうかと当事者たちに聞いてみたかった」と書かれ,橋本先生は「MさんもWさんもお二人とももう他界されています。ですけど,こんな後になって,当時のことをこのようなところでオープンにされることについて,どうお感じになるのか知りたいですね」とおっしゃった。これもまた不思議なことである。
 そして何よりも,終末期のあいだに完成した第X章「友人Dの研究」が高橋さんの最後の症例報告になったことは,その初回面接でのAさんへの思いが正に,第1章「原家族原風景」で描かれた「多勢に無勢」という高橋さんの臨床家としての核となるスタンスにあったことを思えば,余りに一貫していると言わざるを得ない。私たちは,これを意図した訳ではまったくないのだから。
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 さて,本書のようないくぶん成り立ちの変わった著作が出版されるまでの経過について補足することで,ご協力頂いた方々に心からの敬意を評したいと思う。
 2011年11月16日。金剛出版の立石正信社長と編集部の高島徹也さんに出版を打診する。18日高島さんより,ポール・オースターの『オーギーレンのクリスマスストーリー』のような印象を持ちました,と早速,構成についての相談が始まる。21日の私からの返信は次の通り。「『オーギーレンのクリスマスストーリー』とは,オーギーのアルバムに似ているのならかなり高尚で哲学的ですし(「オーギーは時間を撮っているのである。自然の時間,人間の時間,その両方を」),彼の語りについてならかなりナラティヴ(「誰か一人でも信じる人間がいるかぎり,本当でない物語などありはしないのだ」)ということになり,どちらも大変ありがたい印象ですが……」
 一方,金剛出版より刊行予定の『バイオサイコソーシャル・アプローチ入門』(仮題)を共著していた渡辺俊之先生(『家族療法研究』編集長)には,こちらを優先したいので,来春の上梓は難しいかもしれないと連絡すると,下記の返信があり,至極励まされることになった。「これは,先生にしかできない仕事です。よろしくお願いいたします。人にとって死こそ普遍的であり,高橋さんが,メールで語りたかったことを先生が精神腫瘍医,ナラティヴの立場で再編集することが普遍性をもたらすと思います。そして,これは,遺稿集という位置づけを超えた新しい地への入り口です。こういう仕事は先生にしかできませんし,メール開示の塩梅も,ご家族とのやりとりも,先生なら多くの臨床経験で心得ているはずです。BPSは先送りにしておきましょう。これは早く仕上げたほうがいいし,すぐに書いたほうがよいかと思います。死別体験は無意識の扉をあけますから,先生も筆が走ると思います」 11月22日。告別式に参列した小児科医時代の後輩,日本ブリーフサイコセラピー学会会長の市橋香代さんが,柿のお礼を伝える私のメールへの返信の中で,こんなふうに書いてきた。「高橋さんのご主人が告別式で『新しい地平を見つけるとそこまで最短距離をひいて突き進む,そして次の地平を見つけて……』と話しておられました。さすがよく見ておられるなあ」(これを8月1日のメールと比べると興味深い。「高橋さんは17年かけて『孤独』を『孤高』にまで練り上げたように,私には思えます。『はじめに』で書かれた,『多勢に無勢』が伏線としてあり,それがナラティヴの『共同研究』よりも,さらにラジカルな『当事者研究』につながるということ。病いの経験が治療者を作るという観点からすれば,一寸のぶれもない直線が引かれているようです」)
 12月8日,金剛出版の高島さんより企画が編集会議を通ったとの連絡が入る。条件は,タイトルを再検討することのみ。いつもながら,ありがたい。早速,大宮でのリフレクションを頂いた6名の臨床家と秋田での「あたかも」で症例提示をして下さった橋本誠先生に掲載許可のメールを送信する。みなさんからはすぐに快諾の返信が届く。12月12日,高島さんにタイトルは『高橋規子さんと,終末期を書く』ではどうだろうかと打診。また,同日,高橋さんのご主人宛に出版の了承をお願いする手紙を書く。12月26日,ご主人からメールが届いていた。高橋さんの遺品であった草稿を既に読まれており,彼女のご両親からもオーケーを頂いた旨,記されていた。同日,ご両親へも同じくプリントアウトした草稿を郵送する。
 明けて1月4日,高橋さんの師でありその知的財産管理者と言うべき吉川悟先生より,現在編集中の高橋規子論文集と本書第3章の「コラボレイティヴ・アプローチは,いかにして実践しうるのか」との重複はあったとしても問題ないので「ぜひ良いものを作ってあげていただければ」とのメールを頂く。
 1月29日。山の上ホテルで高島さん同席の上,高橋さんのご両親とご主人にお会いする。思慮深く,とても素敵な方々だった。思い出話をお聴きする。海の物とも山の物とも分からないような人間がまとめたものにも拘らず,本書の趣旨を十二分にご理解頂けたことは,共著者として感謝の念に堪えない。高橋さんの記述にはご家族にとって気分を害されかねない部分があるにも拘らず,それはあくまでも主観的に正しいという意味で私たちに削除なり修正の希望はありませんとおっしゃられたのには,本当に頭が下がった。優先順位に厳しいライフスタイルを貫かれた高橋さんを寛容に見守られた方々であることが,今更ながらに実感される。同日,夕刻,吉川先生の声かけにより,お茶の水のイタリア料理店で高橋さんのお別れ会があった。家族療法学会の評議員の多くも会議終了後に参加され,50名ほどの関係者で賑わった。長年の友人,同僚やお弟子さん,それに彼女に支援を惜しまなかった先輩諸氏が大変心のこもったスピーチをされる。まさに高橋さんが誰かと「紡いだ」糸が何本も献花のように並べられていく光景であった。もっと映像的にキルトと呼んだ方がよいだろうか。高橋キルト,それを乱すことなく,本書もその一部に慎ましく納まることを願う。
 最後に,高橋さんからの夏のうたに,ようやく返歌ができる。毎年,冬になると,ビバルディの『四季』冬より第2楽章に合わせて歌うもの。新作ではないけれど,季節柄これかと思う。

2012年1月30日
共著者 小森康永

冬は寒いよね
秋より寒いよね
『西風に寄せる歌』 シェリー
冬来たりなば 春遠からじって
季節は めぐるよ
地球は ぼくら乗せ
いつでもグルグルまわる
メリーゴーランド