まえがき

 巷では「脳科学」がブームになっている。「脳科学者」の本が何十万部も売れたり,「脳を鍛える」式の本やゲームが売れたりしている。しかし,よく売れる本やゲームは,ドーパミンによる報酬機能をうまく活用し,「病み付きにさせている」,よく言えば,「夢中にさせている」だけのようにも思える。「脳トレ」を実践している人はたくさんおり,電車に乗って周囲を見回せば,ゲーム機や携帯電話のボタンを押し続けている人を数人は見つけることができる。聞くところによると,今どきの小中学校の生徒は「遊びに行こう」と言って大勢で公園に行き,それぞれ勝手にゲームをやっているらしい。そんなことをして脳が本当に良くなるのか怪しいものだが,目が悪くなり,同じ姿勢を取り続けることによる肩こりや骨格異常が発症し,運動不足になってメタボ体質になるのは間違いないだろう。事実,筆者自身がそういう目に遭っている。
 脳の構造と機能とその異常(精神神経疾患)について,広く浅く単純明快に解説してあるカラフルな図解本も書店でよく見かける。「脳科学」全般の本であれば,たしかにこのテの本が一番読みやすいのではないか。実際,あまりにも読みやすくてきれいなので筆者も何度か買っているうちに,同じ本を2 冊買ってしまい,妻から叱られたことがある。
 本書の「脳科学講義」は,健康に良いか悪いかわからない「脳トレ」でも,ツンドクしがちな脳の図解でもなく,精神疾患の科学的理解をめざしたマジメな脳科学の講義にである。筆者自身,“最先端の”脳科学を多少モノすることもあり,一般的に受け入れられていることを広く浅く解説するつもりはない。統合失調症やうつ病など筆者が研究対象にしている精神疾患を中心に,その「脳科学」的捉え方について,できるだけオリジナル・データを用いて,筆者の考えを展開させたつもりでいる。本講義によって,科学的証拠に基づいた精神疾患の理解ができるようになることをめざした。それによって,精神疾患の諸相が,つながりのあるもの,納得できるものとして見えてくるようになればと願っている。
 精神疾患をどこまで脳科学で捉えることができるか?
 本題に入る前に,この問いについてあらかじめ筆者の考えを述べておこう。結論を言えば,「脳科学」や「神経科学」だけで精神疾患を捉えることは事実上不可能ではないか。精神疾患の理解において脳科学はたしかに重要な武器となる。しかし,少なくとも従来の脳科学的方法で精神疾患を捉えることは困難である。
 たとえば,精神疾患をある特定の分子で説明しようという試みはこれまでほとんど成功していない。また,ある特定の脳部位の障害,あるいは特定の神経系の異常で説明しようとする試みも成功していない。そのようなことを追い求めるのは,幻想にすぎない「理想の恋人」を探し求める光源氏かドン・ファンのようなものではないか?というのが正直なところだ。このような精神疾患の特徴は,黒質−線状体のドーパミン系の変性でほぼ100パーセント説明できるパーキンソン病のような神経疾患とは対照的である。
 しかし,書店でよく見かける“わかりやすい”脳科学の図解本には,「統合失調症はドーパミンの過剰」,うつ病は「セロトニン不足」などと書いてあることが多い。これを読む限り,精神疾患はずいぶん単純だ。人間は単純化を好むため,こうした図式を真実と思い込んでいる人が世の中にはとても多い。事実,精神科の研修医に統合失調症やうつ病の原因について聞いてみると,大多数が「統合失調症はドーパミンの過剰」「うつ病はセロトニンの不足」と異口同音に答える。学会などで偉い先生がそういう講演をしているのにお目にかかることさえある。しかし,真実はそう単純にはいかない。
 「精神機能は脳が司っている.だから精神疾患は脳科学で解決できる」というのもやや無理があるような気がする。脳はあまりにも複雑であり,要素還元主義で精神疾患を説明し尽くせるとは到底思えない。


緑色蛍光タンパク(GFP)で染めた大脳皮質の培養ニューロン
(筆者研究室,安達直樹撮影)
A: 神経細胞の細胞体から出た1本の軸索と多数の樹状突起
B: 図Aの囲み部分の拡大。樹状突起の表面には多数の粒状のスパインがある。



 脳を構成する最小単位である神経細胞は図の如くであり,いくつもの樹状突起と軸索とで連絡し合っている。この図は,2008 年にノーベル化学賞をもらったわが国の下村脩博士が見つけた緑色蛍光タンパク質(GFP)で,大脳皮質の培養ニューロンを染めたものである(カラーで美しい緑色を味わってもらえないのが残念である)。神経細胞と神経細胞とは神経伝達物質という物質で信号が伝わる仕組みだ。このような神経細胞が,脳の中には100 億個以上存在するとされ,その周囲には何倍ものグリア細胞が存在し,ネットワークを形成している。神経細胞それぞれがいくつものシナプスをもつ。図に示されているように,1 本の樹状突起にさえ無数のスパイン(シナプスの情報を受ける側)が存在する。こうしたスパインは,時々刻々と増えたり減ったりする。情報を伝達する神経伝達物質には多数のものがあり,1つの神経伝達物質にも異なった作用をもつ受容体がいくつもある。その総体が脳という組織なので,同じ細胞が整然と並んでいる筋肉や心臓や皮膚などといった組織とは大きな違いがある。精神現象を脳科学によって要素還元主義で説明しようとしても,このように複雑であるため,説明し切れない。つかまえたと思っても,手の内からスルリと抜けていくのが精神疾患である。
 それでは,精神疾患を脳科学で考えるのは無意味かというと,そんなことはない。近年の脳科学や神経科学には長足の進歩があり,精神疾患についてもずいぶんと「部分的」に明らかになってきている。「部分的」であっても,利用価値のあるものは結構多い。精神疾患の本質は何かということを考えるヒントや新しい診断法や治療法の開発に結びつきそうな知見が次々に見つかっている。臨床で使えそうなものも多いのではないか。そういったものを中心に紹介できればと思っている。
 本書は,もともと「心理臨床家のための脳科学講義」として『臨床心理学』誌に12 回にわたって連載されたものである。したがって,医学や脳科学を専門としない読者を想定してできるだけわかりやすく書いた。また,患者さんの治療を行っていく上でも参考になるような視点をもつように心がけた。さらに,今回の出版にあたり,心理臨床家だけでなく,精神科医,神経科学者,患者さんやそのご家族にも読んでいただけるように,加筆修正を行った。本書が,精神疾患の理解,治療のヒント,神経科学的研究,療養上の助けになれば,望外の喜びである。
 最後に,原稿執筆,出版に際しては,金剛出版の藤井裕二氏,伊藤渉氏に大変お世話になった。ここにお礼申し上げる。

功刀 浩