あとがき

 大変に残念なことでしたが、是非にと予定していた、ユング派分析家の立場で個人開業されているベテランの臨床心理士からの原稿を、ご本人のどうにも致し方ない個人的な事情のために、本書に掲載することができませんでした。そのためもあって、本書の構成上、精神分析的なアプローチに拠る開業臨床心理士の方々が、少々目立つことになりましたが、これは、編者が積極的に意図したものではありません。
 本書を編集するにあたって、ユング心理学も含めた広義の精神分析的アプローチにとどまらず、認知行動療法などさまざまな臨床心理学的方法論によって、職人のごとく「地道に、また丁寧に」、個人開業心理臨床を実践している開業臨床心理士の方々に参加していただきたいと考えていました。しかし、「地道に、また丁寧に」という、この極めて素朴な、またそれだけに難しくもある条件で、臨床実践を続けている開業臨床心理士についての情報が案外に少なく、編者の元々の人付き合いの狭さによる限界も加わって、結果的にこのような構成になりました。
 ただ、現代の開業心理臨床の現場では決して珍しいケースではないでしょうが、第一章で平井正三が紹介している「自分がまるで心のない道具のように扱われているようで激しい憤りを臨床心理士自身に強く喚起するクライエント」、あるいは第二章で亀井敏彦が紹介している「臨床心理士への一方的な挑発、攻撃、無視が五年間以上変化することなく続いたクライエント」などと、向き合い続ける大変さ、厄介さを考えますと、我田引水だと言われるかもしれませんが、筆者が「序章」において述べた臨床心理学(臨床心理士)の原則、ことに「クライエントと臨床心理士との関係の中で」、そして「臨床心理士自身のこともつねに含み込んで」の原則を、たとえ力動的な理論的立場には拠らないにしても、学問的、職業的方法論にしっかり組み込んでいないと、とくに開業心理臨床の場では、仕事としてクライエントに会い続け、心理療法を遂行するのは、非常に難しい作業になってしまいます。
 ときには臨床心理士を荒々しく罵倒するほどの、また臨床心理士を徹底的に馬鹿にし価値下げを行うほどのクライエントについても、それを引き起こしているクライエントの「こころ・からだ」を、クライエントが置かれている状況性、クライエントがこれまでに辿ってきた歴史性、クライエントが生まれて以来経験してきた他者との関係性、クライエント自身が抱える個体性、そしてクライエントは何を探し求めているのかという希求性などを総体的に把握することによって、クライエントへの理解と共感が、少し可能になります(拙著『私説・臨床心理学の方法』)。加えて、そのようなクライエントとかかわることによって、臨床心理士自身に引き起こされる深い無力感、激しい怒り、投げ出したいほどの惨めさなどについても、クライエントとの相互関係の中で理解し、臨床心理士自身の個人的問題としても考え、また同時に、そうした無力感、怒り、惨めさはクライエント自身が体験してきたことでもあるのではないかとの(理論や経験に裏打ちされた)想像力を持てることによって、ようやく臨床心理士は、それを専門的な仕事として、悪戦苦闘しながらも、遂行し続けることができるように思われます。人と人とが深くかかわることによって、ほとんど必然的に手助けする側(セラピスト)の身にも生じる、このような深い無力感、激しい怒り、投げ出したいほどの惨めさに対して、それを、手助けする側の人間性や愛情に頼るのではなく、あるいは手助けされる側(クライエント)の問題に押しつけずに、専門的職業として、また専門的技術として、愚直なほどに対処できるのは、医師や教師などの他の専門家の方々には叱られるかもしれませんが、「臨床心理士」という職業をおいて他にはないのではないでしょうか。
 しかし、そうした真にプロフェッショナルと呼べる「臨床心理士」が、むしろ時代遅れとして、臨床心理士界全体の中でも、だんだんと少数派になっていくのではないかという危惧を、筆者は抱いています。その危惧が、「序章」でも触れたように、この書を企画、編集する一つの契機になっています。第一章から第十二章までの十二人の開業臨床心理士の仕事場からの報告は、クライエントに対する個人心理療法を揺るぎない中心軸に据えて、あるときは我が身をさらけ出し、あるときは思索の井戸を深く掘り下げながら、自立した専門的職業人としての「臨床心理士」のモデルをそれぞれに提示しています。
 現代という時代を生きるさまざまなクライエントに対して、「地道に、また丁寧に」仕事として向かい合い続け、心理療法を実践することに関しては、筆者は、どうしても力動的な深層心理学の立場に与したい思いになりますが、それについて、認知行動療法を始めとして他の臨床心理学的な方法論に拠って個人開業されている臨床心理士の方のご意見や反論を是非とも伺いたいと思っておりますし、学派に囚われない自由な討議の場が開かれることを期待しています。
 最後になりましたが、とても丁寧な編集の作業をしてくださり、いろいろと助けていただいた金剛出版・出版部 弓手正樹さんにこころよりのお礼を申しあげて、本書の結びといたします。

二〇一二年五月五日 編者を代表して  渡辺雄三