あとがき

 本格的な邦文の臨床催眠のテキストが切望されることは、かつてから漠然とは感じていたが、筆者(大谷)がこれを痛感させられたのは日本臨床催眠学会(Japanese Society of Clinical Hypnosis、以下JSCH)で催眠研修を行う機会に恵まれて二、三年経た、確か二〇〇〇年代の初頭であったと思う。JSCHは、その名称からも察せられるように、催眠領域の学術団体として世界最大の規模を誇る米国臨床催眠学会(American Society of Clinical Hypnosis)(以下、ASCH)の姉妹団体である。両学会のあいだには研修単位の互換性が認められている。これゆえASCHのカリキュラムに従い、日進月歩する催眠理論と治療技法を、医学・心理学・歯学とそれに準じる分野で活躍する日本の専門家に教示し、訓練の場を提供する。これが筆者(高石)のJSCHを設立させたねらいであった。殊に近年のニューロサイエンスの進展や代替補完療法に対する関心などを考えると、催眠への期待も自ずと高まり、実践向けで、しかも高水準の研修が要望されるのは必至であろう。
 しかしながら困ったことに、その催眠研修のテキストとして利用価値が高く、しかも臨床活動に役立つ、催眠の諸理論と誘導・治療技法、ひいては最新の催眠研究の成果などを総合的に俯瞰した学術書がまったく見つからないのである。既刊の催眠書籍はそのほとんどが素人向けの「催眠術本」であり、専門家向けのものは大半が本書でも触れた「エリクソン催眠」の翻訳書となっている。日本人学者の手による専門書といえば一九六〇年代に刊行された一昔前の著述に終わっていた。現代の臨床家を念頭においた、学術的に信頼のおける催眠テキストを世に問いたい。これが本書を執筆するきっかけであった。しかし我々が危惧したさまざまな懸念の一部については「本書を世に送るにあたって」に記したとおりである。
 本書の構想を練るにあたり、理論の敷衍、技法の具体的詳述、および最新主要文献の解題と紹介という三本の基軸を目安とした。日本では催眠理論について従来から余り説示されておらず、催眠といえば解離といった安易で形式的な理解にとどまっている節がみられる。例えば、Hilgardの新解離理論についてもその全貌が体系的に理解されず、同じ状態理論である催眠の分析理論と混同されたり、さらには単に「解離」という名称から「解離障害に対して催眠治療が有効だ」、などといった無謀な発言も見受けられた。ましてや催眠の非状態理論に関してはほとんど等閑視された状態である。むしろ、その名前すら耳にしたことがない人が多いのではなかろうか。気鋭の日本語学者として知られたゆえ大野晋博士はかつて、日本人は理論を嫌うと指摘されたが、こと催眠に関してはこれは正鵠を射た警告である。
 催眠技法に関しては、本書では催眠誘導をコミュニケーションの視座からとらえ、まずそれの原則とプロセスについて論考した。これに続いて観念誘導技法の言い回しを逐語例を掲げることにより、なるたけ具体的な説明を試みた。催眠の誘導と治療過程に関わりの深い催眠感受性についても、その統計的特性と問題点、および標準尺度についての概略を提示した。一方、催眠の治療技法については臨床で幅広く実践され、その成果が学術誌に症例や論文として発表されたものを選んで解説することにした。筆者(高石)が兼ねてから主張してきた、「催眠を主体とする療法」と「催眠促進による療法」を理論枠組みとして導入し、数多い催眠技法がこの分類によってわかり安くカテゴリー化されたと信じている。同時に、これまで曖昧にされてきた催眠のアイデンティティもこれによって明確となり、技法の理解が促進されることを願ってやまない。さらに筆者らによる症例も適所に掲載するよう努めた。少しでも読者の参考になれば幸いである。
 本書ではまた二〇〇〇年以降に刊行された臨床催眠の論文のなかから、日本の読者にとっても関心が高く、有用と思われるものを選分し、できる限り紹介するよう心がけた。最近の欧米のジャーナルにはニューロサイエンス手法、特に画像診断をフルに活用した、催眠の基礎研究が矢継ぎ早に公表されることはすでに著したとおりである。これらの発表を鵜呑みすることはもちろん軽薄な行為といわねばならないが、反対にこれらを見逃したり、無視することも学術的には無鉄砲である。ましてやインターネットで情報が手安く入手できるようになった現在、文献無知を通すことはもはや専門家には許されない態度であろう。
 本書で学術文献を重視したもう一つの理由は、催眠にともなうエビデンスの問題である。臨床催眠の存続には、エビデンス確立が不可欠であることは本書で力説したとおりである。催眠が現時点でどのような障害に対して適用され、どのような技法が活用され、どのような成果が確認されているのか。こうしたトピックを避けて通ることは今や時代遅れとなり、臨床催眠のテキストとして不適切とみなされることは一目瞭然である。文献の選択についての方法論は本文中に詳細を記したが、この任務と取り組んだ筆者(大谷)が米国在住という理由から英語文献が主となったことはご容赦頂きたい。日本で発表された論文は適所、入手できる限り報告したつもりである。しかしながら、これほど多数の催眠論文を掲載した邦文催眠テキストがこれまで見あたらなかったことは筆者らの自負するところである。
 最後になったが、数年にわたる計画、長時間に及ぶ日米間の討議、そして執筆と原稿校正の「知的な旅」(インテレクチュアル・ジャーニー)となったこのプロセスに参加し、助力を惜しまれなかった金剛出版編集局の藤井裕二氏に深い感謝を捧げる。本書が海外の一流テキストと引けをとらない、邦文の催眠テキストとして末永く、臨床家の座右の書となることを願う。

2011年、師走
高石 昇
大谷 彰