監訳者まえがき  松木邦裕

 人間の本質とは何か。精神分析的探究の中核とは何か。この双方の問いにもっとも肉薄する人間の属性は、性愛?sexuality?でありましょう。
 かつてその創成期に精神分析の存在が社会全般に広く浸透し始めた頃に、精神分析は?汎性欲論?と呼ばれもしました。そこには精神分析に向けられたいかがわしさや揶揄を伝える響きが確かに含まれていました。それでも真摯な視座から人間と精神分析を直視するなら、この表現はさほど間違ったものではないと私は思っています。確かに精神分析は性愛を備えた人間というものに注目しました。それは、性愛を生きて苦闘している人間こそが、生きた人間であるからです。その人間に生きているこころがあるからです。生きたこころこそを精神分析は見つめ続けようとしています。
 しかしながら精神分析さえも、臨床実践に没頭したときから体系化され精神分析学と呼ばれるようになる進展の歴史において、性欲動やリビドー論を、やがては精神−性愛の発達そのものを置き去りにし始めました。自我や超自我、対象、象徴などの抽象化されやすい概念に重点は移され、いわゆる洗練された知的思索が主導権を握っていきました。その結果、その議論の中には生きた人間がほんとうにいるのか、不確かな状況さえ見られています。
 ですがその中にも、精神分析が何を見つめるのかを忘れていない人たちもいます。
 本書の著者ドナルド・メルツァーもそのひとりです。すでに三冊の邦訳書があるメルツァーはわが国でも注目されているクライン派分析家になっており、?精神分析過程?や?精神分析と美?を彼の代表作と考えている臨床家も多いでしょう。その見解を否定するものではありません。しかし個人的には私は、本書?こころの性愛状態?がメルツァーの代表作と考えています。少なくとも私がもっとも好む彼の著作です。私に言わせれば、精神分析の源流に直結する著作なのです。フロイトがその晩年においても自身の代表作のひとつと公言した?性欲論三篇?を、クライン、ビオンの業績に立脚しながらみごとに深化させた、精神分析の臨床体系に不可欠な著作と私は位置づけています。
 これも周知のように、メルツァーは子どもの分析家でした。性倒錯者もまた彼が精神分析の対象としたところでした。彼の代表論文が?肛門マスターベーションの投影同一化との関係?であることにそれは示されています。こうした臨床活動が人間における性愛の中核性を見逃させなかったのでしょう。
 ビオンは両親の性交の健全な内在化こそが、その人の深い思索や豊かな創造性の根源であると述べました。メルツァーはそこに止まらず、そしてもちろんフロイトの性愛に関する知見にも止まらず、精神−性愛の発達に関する新たな見識を披露し、それを通して人間そのものや人が生きる文化を探究しています。メルツァーの諸見識を参照しながら、私たちは性愛を通して人間の本質に迫ることができるのです。
 原著“Sexual States of Mind”の翻訳出版の成就は、ひとえに統括的な最終監修を担当された古賀靖彦氏に負っています。文章としても研究書としても高い完成度をもって本書を世に送り出すことができたのは、精神分析臨床実践を踏まえた彼の優れた読解力と丁寧な校正、緻密な全体構成の賜物なのです。
 各章は翻訳を担当された諸氏によって早くに完成されていましたが、精密な仕上げが必要なため、その後かなりの時間を要しました。しかしながら翻訳者諸氏も本書の完成度に満足されると私は思っています。
 好もうと好むまいと、本書?こころの性愛状態?にこそ精神分析にとってのこころがあります。私はこう言いたいのです。