本書は、Donald Meltzer“Sexual States of Mind”(Clunie Press, Perthshire, Scotland, 1973)の全訳である。
メルツァーの主な著書には、“The Psycho-analytical Process”(1967)(松木邦裕=監訳/飛谷渉=訳)『精神分析過程』金剛出版)、(Sexual States of Mind”(1973)、“Explorations in Autism”(1975)、“The Kleinian Development”(1978)、“Dream-life”(1984)(新宮一成・福本修・平井正三=訳)『夢生活』金剛出版)、“Studies in Extended Metapsychology ”(1986)、“The Apprehension of Beauty”(1988)(細澤仁=監訳/上田勝久・西坂恵理子・関真粧美=訳『精神分析と美』みすず書房)、“The Claustrum”?1992?、“Sincerity and Other Works”(1994)などがあり、本書は彼にとって二冊目の書である。
 本書に限らずメルツァーの著述は理解するのが容易ではない。その主な理由は、メルツァー自身、彼が賞賛してやまないフロイト、クライン、ビオンらの系譜に連なる、創造的な天才だからだと私は考える。いみじくも彼は、本書の第1章において、「フロイト自身は双方(帰納的方法と演繹的方法)を往復しながら作業することができる人であった……彼は霊感を受けた(inspired)仮説に導かれて自らの方法を拡張し、次にこの方法で新しいデータを明らかにし、この新しいデータによりまた新しい仮説を必要としていったのである?とフロイトの創造性の源を看破している。この記述から私は、トーマス・クーン(Thomas Kuhn)が『科学革命の構造』(1962)で著したパラダイム論を連想するし、精神分析においては、ビオンの表記のPs ↑↓ D の含意の一部、つまり、後にロナルド・ブリトン(Ronald Britton)が『信念と想像』(1998)でPs(n)↓ D(n)↓ Ps(n+1)↓ ...D(n+1)と読み解いた、こころの発達・成長のモデルを連想する。天才たちの著述では、霊感(inspiration)や直観(intuition)(ビオン)に導かれた、従来のものとは不連続で飛躍的な考えが螺旋状に創造されていくために、私たちの理解が困難になるのだと思う。
本書が著された社会的背景として、メルツァー自身が?序文?で仄めかしているように、一九六〇代のアメリカに端を発した「フリー・セックス」あるいは「性の革命」の世界的な潮流とそれに伴う混乱があることは明白である。しかしながら、メルツァーが本書を著すのに「切迫感」を抱いたのは、一九世紀末ウィーンの「性の抑圧」文化に根ざしたフロイトの性理論という一つのパラダイムが転換される必要性と圧力を、その時代の分析家として彼が誰よりも切実に感じたためであろう。これを、将来、素粒子ニュートリノの速度が光より速いという実験結果が確証されて相対性理論の改訂を迫られる場合に、物理学者が抱くであろう切迫感になぞらえるのは大げさに過ぎようか。さらに、これは副次的ではあるが、メルツァーが処女作で精神分析過程の自然史を記述していくうちに、そこに含み込むことのできない人間の本質、よって精神分析の本質である性愛の自然史が自ずと浮かび上がってきて、それを描く必要性を感じたのではないかとも推測する。そういう意味で、本書は『精神分析過程』と双子のきょうだいのような関係にあると言えよう。
 フロイトの精神−性理論からの大きなパラダイム・シフトは、本書全体を一つのまとまりとして成し遂げられているが、とりわけ「霊感を受けた」メルツァーの考えと私が感じるものを、いくつか挙げてみたい。
 一つ目は、人のこころ(心的装置、あるいはパーソナリティ)の組織化や組織(organization)といった観点の導入である。本書の第2章と第3章において、このパラダイムの転換がフロイトの考えの流れに起きていることが見事に立証されているが、私はこれをメルツァー自身に起こったものとして読む。その結果彼は、この観点から、フロイトの精神−性理論を縦横無尽に改訂していくのである。さらにこれは、後述するパーソナリティの病理組織論の発達の素地、および、抑うつポジションや妄想−分裂ポジションといったクライン派の基本概念までもが組織として論じられるような発展(Spillius, E.(1994)Developments in Kleinian Thought. Psychoanalytic Inquiry 14 ; 324-364)を遂げる素地を作ったと私は考える。
 二つ目は、成人の性愛(成人組織)の属性が内的な結合対象(超−自我−理想)の性的合体との取り入れ同一化に基づいており、その機能には鼓舞/霊感を受けた創造性があるという考えである。これはまず、フロイトのエディプス・コンプレックスと超自我の概念を直接結びつける。そして同時に、クラインの部分対象としての結合両親像の概念を全体対象水準にまで拡張し、それを抑うつポジションの概念に関連づける。以上の結果、これは、フロイトのエディプス・コンプレックスの概念とクラインの抑うつポジションの概念を見事に繋ぐ考えとなっている。「監訳者まえがき」で述べられたように、ビオンは両親の性交の内在化の意味を思考や認識論の観点から推敲したが、メルツァーはそれをじかに性愛の観点から練り上げているのである。
 三つ目は、倒錯の本質が「良いものという見せかけを保つ一方で、良いものを悪いものに変える」ことにあり「倒錯させられない人間の活動はない」としてその概念を拡張し、それをパーソナリティの乳幼児的で破壊的な自己愛組織?嗜癖?の表現形とする考えである。これは、クライン派の分析家たちが豊かな発展をもたらし、最終的にはジョン・スタイナー(John Steiner)(『こころの退避』(1993))が包括的に検討した、パーソナリティの病理組織論の先駆となったものである。
 なお、これまで述べた、成人組織の属性が言わば生の欲動の達成だとするなら、自己愛組織は死の欲動の産物である。そしてごく単純化すれば、本書は、こころの性愛に関して、組織の観点から、生の欲動の達成から死の欲動の産物までのスペクトラムを網羅する試みだと言えよう。
 ちなみに、以上を、本書を素材とした、直観に導かれた私の解釈として読んでいただければ誠に嬉し
い。
 本書では重要な訳語の統一を試みているが、その最終的な判断と選択は、ひとえに私の責任でおこなった。重要な概念、organization の訳語についてであるが、これは従来、「体制」「組織化」「構造体」「編成」などと訳されてきたし、私自身は組織体と訳してきた。しかしながら、日本語の「組織」には「組み立てること。また、組み立てられたもの」(『精選版 日本国語大辞典』(2006))の二通りの意味があるのと同様に、organization の意味も二通りがある。よって、今回私は、文脈に依って、organizationを「組織化」と「組織」とに訳し分けた。なお、メルツァー独自の用語中、以下のものに関しては、熟慮の上、従来とは異なる訳語を採用した― zonal confusions(部位の混乱)、threshold of depressive position(抑うつポジションの閾)、gathering of transference(転移の集まり)、aesthetic apprehension(美的感知)。最後に、訳語や訳文が無用の難しさを重ねるものとなっていないことを切に願うが、この点についての読者のご批判やご意見を賜ることができれば幸いである。
 私が本書の翻訳を請け負って以来、一〇年もの歳月が流れてしまった。完成にこれだけの長い年月がかかった主な原因は、メルツァーに対する私のアンビバレンスにあるように思う。それが単に個人的なものなのか、それとも一般化できるものなのか、私にはわからない。ただ、これまでに邦訳されたメルツァー著の二冊も出版までに五年以上を要している事実が、私にとって多少の慰めとなる。
 翻訳は、私の主催する福岡の西新精神分析セミナーと九州大学精神分析セミナーに当時参加されていたメンバーにお願いした。また、世良洋先生には、第14章に当たる論文を『メラニー・クライン トゥデイA』(1993)ですでに訳されていた事情もあって、特別に担当をお願いした。そして、翻訳は比較的早くに仕上げられた。監訳作業が遅れたために訳者の方々に迷惑をおかけしたことを陳謝するとともに、すでにセミナーを巣立ってそれぞれの場所で活躍されている諸子の益々の健闘を祈りたい。
 何度も座礁しかけた監訳作業を完成への航路に戻す力仕事をしていただいたのは、松木邦裕先生である。長年の変わらない情熱と温かいサポートにこころから感謝を申し上げる。また、加来博光先生には、無理を言って短期間で訳稿に目を通していただき、かつ貴重なご助言を数多く賜った。
 最後に、長年に亘って粘り強いご支援をいただき、そして、立派な書籍として本書の出版を果たして下さった金剛出版編集部の方々、特に藤井裕二氏には深謝したい。
 

二〇一一年一一月 秋爽やかな寓居にて