本書は,「ゲシュタルト療法入門─“今,ここ”の心理療法─」の特集である。ゲシュタルト療法の経験や教育分析を受けた仲間が“今,ここ”について,それぞれ心理臨床や教育,また医学教育の現場において蓄積してきた経験を述べたものである。
 “今,ここ”というのは,たとえば心理臨床において,今,経験しつつある現実は,まさに“今,ここ”という場で生起している現象であるが,その現象そのものの総称をいう。ゲシュタルト療法では,この“今,ここ”を現在性(presentness)といって重視する。現在性こそが,クライエント理解や介入する手がかりの宝庫だからである。たとえば,クライエントが拳骨をつくっている場合,まず,拳骨をつくっているのは“今,ここ”であり,その現象が観察されるのも“今,ここ”という場であるからである。これをゲシュタルト療法では現象学的場と呼んでいるが,この場こそ,観察により気づくことができれば,多くの心理治療的介入の手がかりを発見することができる。
 しかし,“今,ここ”は,過去の経験や念い,また部分と全体との繋がりを包含している。たとえば,木と森の関係がそうである。「木をみて森を見ず」の譬えのように,目の前の一本の木のみを見てすべてだと判断してしまうと,森という全体を見失うことになる。現象としては,一本の木を見ているのであるが,その木の今までの過程や全体との繋がりを一本の木の中に見る洞察力が問われているのである。これは「想像たくましくせよ」というのとは異なる。あくまで“今,ここ”に居合わせて見える,自明なことを観察することからはじめるのである。
 先きの拳骨の例であるが,筆者がセラピストとして“今,ここ”で目に映っているものは,拳骨であるが,その拳骨にはクライエントの誰かとの怒りや確執が表現されているかもしれない。それはまだクライエントにもセラピストにも分からないのであるが,そのような見立て・洞察をセラピストがもつとき,〈拳骨をつくっているのですか。ご自分でお気づきですか〉という介入になるのである。そうすると,そこから,「いや気づいていませんでした。しかし,そう言われてみると,父に対して怒りが込み上げてきます。父は飲んで帰ってくると毎回,母親に暴力を振るうのですよ!」という具合に,セラピーは展開する。
 また,筆者が梅を愛でているとする。眼前の梅そのものは早春のシンボルとして,匂いも香しい。しかし,ふと,菅原道真の「東風(こち)吹かば 匂いよこせよ梅の花 主なしとて春な忘れそ」を想う。筆者は,“今,ここ”で梅を愛でているのであるが,道真が太宰府への左遷をひかえて,もう戻ってくることの許されない京の都を偲んだ様子が,気持ちの中に去来する。それは五感に映っているもの以上のものである。切なさ,侘しさ,悔しさ,愛おしさなど,情感が生起し,“今,ここ”にいっそうの彩りを与え,意味づけしている。セラピストがクライエントの語りや非言語的仕草に気づくのは,“今,ここ”においてであるが,どのような語りや非言語的仕草に注目するかは,セラピストの蓄積された心理臨床の経験や人生における知恵,すなわち力量が大きく寄与すると思われる。それは,“今,ここ”におけるクライエントのことばを単に“おうむ返し”するのとは似ても似つかわないものであろう。
 このあたりは,単純に見えるかもしれないが,深淵なものがある。いかに深淵なものであるか,執筆者たちの論考を読み進めていただきたい。

倉戸 ヨシヤ