この著書で,多くの患者から学んだことを書かせていただいた。「分析の隠れ身」という言葉があるように,治療では,患者の世界を鏡のように映しだすことがポイントとなり,治療者が「自己開示」するのは,治療上意味があるときに限定されている。
 私は40 年近く精神科医の仕事を続けてきたが,多くの人たちに支えられていたことを改めて思う。逸脱行為になるかもしれないが,自分の人生を回顧し,感じることを書いてみたい。
 私は,1947(昭和22)年11 月3 日,四国の松山市,道後で生まれた。まさに戦後のベビーブームの真っ盛り,団塊の世代である。母から聞かされたのは,大変な難産で,臍帯が私の首に3 重に巻きついており,仮死状態で生まれたとのことだった。その後遺症か,今でも私の呼吸は,ふと気づけば止まっており,息苦しくなって再開することが多く,自然な呼吸ができない。有名な道後温泉には赤ん坊のときから入り,家の風呂場は蜘蛛の巣だらけだった。同胞は2 歳上の姉。父は電力会社に勤務しており,生活も安定していたはずだが,母は何を思ったか,私が2 歳の時に私たち姉弟を保育園に預け,洋裁学校に通い始めた。母と離れるという突然の変化に強烈な不安を覚え,泣き叫んで抵抗した。それでも,振り切って立ち去った母の非情な顔をよく覚えている。私の泣き方は凄まじく園長室に連れて行かれたが,それでも泣き止まなかった。以来,子ども時代の私はずっと泣き虫だった。保育園では,お昼寝の時間というのがあり,緊張の強い私は,皆がすやすや眠っている傍で,まったく眠ることができない苦痛を味わった。ちょうど肛門期に当たる年齢の私は,保育園のトイレを使うことができず,とぼとぼ一人で家まで帰ってうんこをした。最近,姉と話をしていて初めて明らかになったのだが,本当は一人で帰ったのではなく,姉に連れられてだった。姉は,これから何か面白いことをして遊ぼうとすると,必ず決まって私が泣きだし,園の先生から呼ばれて世話をさせられ苦しい思いをしたということも知った。未だにそれが姉の大きなトラウマになっているようだ。姉が母代りだったの
だ。また,悪いことをした記憶はまったくないのだが,母はいきなり激怒して私のお尻を叩いて押入れの奥に放り込んだ。その暗闇は途轍もない恐怖だった。それが何度も繰り返された。
 3 歳のときに,父の転勤で,同じ四国の高松市に転居した。私たち家族は市の郊外の田んぼの中にある社宅に住むようになった。3 歳で麻疹にかかり高熱にうなされ,そのとき悪夢を見た。砂漠のようなところを一つの人影が背を向けて遠ざかって行く荒涼とした風景で,私は恐怖で飛び起きた。この夢はやはり,保育園で,母に見捨てられたと感じたことに関連していると思われる。母との間には,バリントの言う「苦痛な適合の欠如」が明らかに存在した。
 父は長期の出張で不在であることが多かった。肩車されたことや,背中がよく凝るらしく,背中を踏まされたことなどが懐かしく思い出されるが,一方で,父は短気な人であり,幼稚園時代に,まったくわからない理由でいきなり殴られたことがある。父と一緒に外出中,一台の自転車が父と接触,ズボンを汚した。父は血相を変え,走り去る自転車を追いかけ,男を引きずりおろし蹴飛ばしていた。私は何と怖い人だろうと思った。父は恰幅よく背の高い男で,私にとって恐怖の対象となり,父の不在を願うようになった。しかし,外では田園風景の中,近所の遊び仲間とよく遊んだ。私は傷つきやすい子どもであった。遊んでいる間に,しばしば,「お母ちゃんに言うてやる」と叫んで泣きながら家に帰ったものである。この言葉は遊び仲間にとって何の意味もなく,一緒に遊んでいた姉を困らせるだけで,母に癒されることもなかったが,その頃の私には魔法の言葉のように感じられた。母親を理想化していたのだ。私はこの「エディプスコンプレックス」を,その後も引きずることになる。
 小学校の頃,母は何故か内職ばかりやるようになった。封筒はりとかさまざまな仕事で忙しくしていた。今にして思うと,その必要があったか甚だ疑問であるが,その手伝いを姉とともにやらされた。少し長じると,槇割り,風呂焚き,炭火熾し,母から渡されたメモを手にお使いを姉と一緒に毎日のようにやらされた。遊んで,さらに家の仕事もしていたのだから,忙しくて宿題をする時間がなかった。宿題をしない言い訳を考えることには巧みになった。ただ,小学校の放課後に,ランドセルを放り投げて,遊び呆ける時代があったことは何よりの楽しい思い出である。あの頃の子どもは,現代と違って,自分たちで,ある種の自治的徒党を組んで,年長と年少が一緒に遊んでいた。その遊びの中で培われたものは大きかったと感じる。今の子ども達は,自然環境にも恵まれず,こういう遊びの文化を喪失した時代を生きざるをえず,つくづく可哀想だと思う。私は,教育改革を言うなら,子どもの遊びの文化の再興こそなされるべきだと考えている。
 小学校高学年になると,私は学区から遠く離れた香川大学附属小学校に編入させられた。以来,地域とのつながりが疎遠となりバス通学が始まった。おかしな学校で,これまで成績のことなど考えたこともなかったが,テストの成績順にずらっと並ばされ私はその列の最後だった。これはひどい屈辱体験だった。また,わけもわからず教師から殴られた。このストレスが影響し,不眠症に悩まされるようになった。深夜になっても目がランランとして,ただ柱時計の音が一つずつ多い数で鳴る。心細かった。内科医からアトラキシンという睡眠剤をもらって何とか睡眠がとれるようになった。それから少し勉強を意識してやるようになったので,ビリに並ぶという屈辱を味わうことはなくなった。
 私は背が低い。周りからチビ,チビと言われ,いじめと言えるほどの陰湿さではなかったが,ひどく傷ついた。父の背が高かったので,よけいチビであることがこたえた。「チビ・コンプレックス」が深く根付いた。
 中学校に上がり,成績がよくなっていた私は学年委員長をやらされた。朝礼のとき話をしなければいけなくなったが,皆の前に出た途端,あがって頭が真っ白になった。何を話せばいいか何も出て来なくて,私を見つめている多くの顔がすごく怖いものに感じられた。このときから,私は対人恐怖になった。思春期になり,夢精,自慰も覚え,異性への関心が高まった。しかし,女性はやはり恐怖の対象でしかなかった。好きな女の子ができたが,気付かれないようにただじっと見つめているだけだった。憧れだけは強烈なものになった。そして,白昼夢にふけるようになった。そこには,死んだ女性を愛するシーンがよく登場した。「ネクロフィリア」と言ってよい。空想の中ですら,生きた女性が怖くて死んだ女性なら愛せたのだ。
 こういう病的な中学生だったが,一方でいい友人ができて,よく山登りに誘ってくれた。彼は,後に高城修三というペンネームで芥川賞を受賞した。小豆島の一番高い山の上で満天の星空のもと野宿をしたことがある。ちょうどその夜は流星群の日で次から次に流れ星が飛んだ。この神秘的光景は一生忘れられない。
 高校に入っても,対人恐怖は,衰えることなく激しくなる一方であった。女性への憧れだけはますます膨らんだ。白昼夢も続いた。知性化防衛と呼んでいいのだろう,やたら哲学に興味を持つようになった。和辻哲郎,西田幾多郎などの本を貪り読んだ。理解したとはとても思えないが,難解なものにチャレンジすることが好きだった。高城修三に誘われ山岳部に入った。一番体力のないチビが,重いリュックを背負って山に入るのである。苦しさは並大抵ではなかったが,顧問の教師は個性的なロマンチストで,強い影響を受けた。物理学に憧れ,将来宇宙の神秘を解明する物理学者になりたくなった。それに向けて受験勉強を始めたが,やっていく中で,数学,物理より,むしろ文系に適性があることがわかってきた。理系コースにいた私は,医者なら潰しがきくだろうと思い,受験直前に理学部から医学部に志望を変えた。
 無事合格し,上京して一人暮らしを始めた。四国の小都市は海に臨み,山を背にしていた。東京には海も山も身近にはなくだだっ広いだけだった。自然も身近には乏しかった。それは大きな喪失感だった。自然の中で癒されていた私は,癒しを日常的に得られなくなったのである。違和感が強く,一種の離人感を覚えた。大学は,政治の季節だった。教室には毎日,学生運動の闘士が現れ政治演説をぶっていた。授業開始の時間が来ても,教師は黙って待っていた。私は,すぐに勧誘され,横須賀の原子力潜水艦寄港反対デモに行き,警官に殴られ蹴飛ばされ,雨でびしょ濡れになって靴を失い裸足で帰った。また,その頃好きだった三島由紀夫の影響で,ボディビル部に入った。1 年間熱心にやったが,ある時,筋肉がメリッと壊れる音が聞こえ怖くなってやめた。自然への郷愁断ちがたく,上高地に行き穂高に登った。そこは四国の山々と違って本格的岩山だった。転落の恐怖を味わいトラウマとなり,以後,低山専科になった。丹沢に残るブナ林は今でも大好きだ。
 医学部に進学したとき,大学はストライキに突入。毎日,ゲバ棒を持った隊列が行進し,違う党派間での殴り合いなど日常茶飯事だった。政治にそれほど熱心になれなかった私は,沖中士をやったり,新宿のゴーゴー喫茶でボーイとして働いたりした。沖中士をやった時は,クレーンが落ちてきたが,額に怪我をしただけで命拾いした。
 女性への憧れと性的欲求不満は,いや増しに高まり,友人がセットした合コンに出かけて行った。新宿歌舞伎町の薄暗い名曲喫茶に,ランボーの読書会と称して集まった。その中の,小生意気な印象の女と付き合うようになった。嵌めたつもりが嵌められた。女の狂気が勝っていた。セックスに明け暮れた挙句,気が付いた時には結婚していた。女性恐怖で遊びを知らなかった私は童貞結婚だった。私が22 歳,妻が21 歳だった。遊び足りない私は,その後延々と悪あがきをして妻を怒らせた。ストライキが終わり,授業が再開されても面白いと感じるものが少なく,ほとんど外に出ず引きこもりの生活をしていた。妻は無類の猫好きで私は大嫌いだった。6 畳一間のアパートで,妻は猫を拾ってきて飼い始めた。雌猫だったのでどんどん仔を生み,あっという間に8 匹の猫に部屋は占領された。朝起きてみると私の布団の中には嫌いな猫が何匹も入っていた。そこから引っ越すときに部屋の隅にうず高くうんこの山ができていた。地獄の季節だった。
 卒業前の3 カ月間,閉じこもって医学の勉強をした。それを妻がよく手伝ってくれた。そのせいか医学知識では妻の造詣は深い。これはひとえに私のお蔭である。そして試験は何とか合格。サボってばかりいたことを知っている学友からは,よく受かったなと驚かれた。
 医学をにわか勉強でしか知らない私は,とりあえずもっと勉強をしなければと思い,内科の研修医となった。若造にとって人の死を看取ることは実に重たい仕事だった。2 年経って,内科の研究室に所属しないといけなくなったとき,私は,どうしても試験管を持って実験する生活に興味が持てなかった。それより,私は人間の主観性の神秘に関心があった。そして精神科医の道を選ぶことになった。東大分院神経科の医局に入り,安永浩先生,飯田眞先生からご指導を受けるようになった。安永先生のことは,まえがきで触れさせていただいた。飯田先生からは,いつも穏やかな表情でボソボソと小さな声で,辛辣に私の盲点を突くご指導をいただいた。今となってはとても有難く思っている。状況論など学んだことは大きかった。それから無我夢中で精神科医としての修行に打ち込んだ。
 3 人の子どもに恵まれたが,家庭を顧みず,父親としても失格で,妻にも悲しい思いをさせた。慙愧にたえない。それでも,子どもたちは傷つきながらも,それぞれ立派に巣立って行った。今は妻と二人で暮らしているが,どういうわけか猫が一匹一緒にいる。不思議なことに,その雌猫は拾ってきた妻には少しも懐かず,私にすり寄ってくる。父はアルツハイマー病になり鬼籍に入り,母も認知症で姉夫婦によって介護されている。
 ところで,私自身,母の胎内での居心地は決してよくはなかったのだろう。保育園でも小学校時代でも現在においても不眠に悩まされている。「まどろむ」ことができないのである。いつも緊張しており,本当のリラックスを知らない。背中の辺りにべったりと張り付いた「怯え」が感じられる。これは,想起することはできないが,身体が記憶している胎生期の原始的感覚であろう。未だに私の対人恐怖は治っていない。
 あえてこのような「自己開示」を行ったのは,私も程度の差はあるが,患者と同様の苦しみを体験していることを伝えたかったからである。患者の理解,患者との相互性のある関わりは,共有するものが基盤にあり,それを常に見据えていることが必要なのではないだろうか。