『統合失調症の精神分析−心的装置の「無底」と根源的アイデンティティ

中野幹三著
A5判/224p/定価(本体4,200円+税)/2013年1月刊

評者 松木邦裕(京都大学)


 著者中野幹三氏は,私にとっては日本精神分析学会のある時代の空気を分かち合った間柄の精神科医である。クリニックを開業されたことでその臨床に専心され,分析学会とは距離が生じたのを私は残念に感じていた。だが,本書『統合失調症の精神分析』の出版によって中野氏が当時と変わらぬ熱意で精神分析的探究を続けておられることを知り,大変うれしかった。本書は書評依頼がくる前にすでに読み終えていた。ゆえに紹介を含めてここに記すことは,純粋な読後感に近い。
 本書を紹介する。本書は,著者が精神分析的精神療法を以てかかわった,重い精神病状態を呈した二症例,症例Sと症例Nを中心に構成されている。どちらも重篤な精神病理を持ち,治療過程は極めて難航する。しかし中野氏はSやNの人間としての在り方を,精神分析の視点から細やかに理解するこころの作業を根気強くかつ丹念に続けることで持ちこたえ,彼女や彼をコンテインし続け,そこに回復の道が拓かれる。ここには,精神科医ならかくありたいと願う専門家としての誠実で真摯な姿勢が見事に貫かれている。
 そして,それらの臨床経験のもとに中野氏が学び推敲し,構築した理論的考察が述べられていく。読者はこの構成自体から,本書が臨床の書であることを理解されるであろう。
 理論的考察においては,フロイト,クライン,土居,安永,ビオン等が援用されるが,最も重要なことは,先達から学んだものに自らの臨床経験を踏まえて検討を重ね,自らの理論を構築することによって,それらを目の前の患者の治療に還元していることにある。「「無底」に帰ろうとする逆備給」(97p),「エスの背離による……「根源的アイデンティティの喪失」」(100p),「スサノヲコンプレックス論」(163p-)等,いずれも臨床から出現し,臨床に戻る意義深いものである。紙幅の関係できちんと紹介できないのが残念である。
 本書に学ぶところは豊饒にある。それを掴むには,読者自身の臨床経験と重ねながら本書を読み進めていくことが最良の方法であるが,私として紹介せずにおれない箇所を二,三引用する;「統合失調症の臨床は,診断して,薬物療法をすれば事足れりというものではない。統合失調症の患者にとって「精神療法」は必須である。彼らは受容されることで癒されるのである」(113-114p)。「たとえ5分間であってもいい。患者にいたいけな「傷ついた胎児」を感じられるか。ここに統合失調症の精神療法の要諦がある」(114p)。
 中野氏がみせている実直さは,「不器用の一心に勝る名人はない」(宮大工棟梁 小川三夫)の具現化をもたらした。
 最後に,読者に著者のことばを贈りたい。私にとってこのことばは,その人が真の臨床家になっているかを見極める試金石と理解するものである。「理解が深まれば深まるほど,臨床の質は高まる。そのためには,大胆に仮説を構築する努力が必要である」(114p)。
 中野幹三著『統合失調症の精神分析−心的装置の「無底」と根源的アイデンティティ』の上梓を,中野氏が師と仰いだ安永浩先生,土居健郎先生のお二人がこころから喜ばれたにちがいないと私は確信している。