一九七七年に刊行されたアーネスト・ロピケット・ヒルガードの“Divided consciousness:Multiple controlsin human thought and action” は、欧米では広く好評を博し、心理学を学ぶ者の必読書とされるほどであった。一九八六年には、ヒルガードの所見に対するその後十年にわたる他の研究者たちの研究を含めたものが増補版として刊行された。本訳書はこの増補版を全訳したものである。
 原題はそのまま訳せば『分割された意識─人間の思考と行動の多重制御─』となるが、本訳書では表題は、ヒルガードの重要な発見である〈隠れた観察者〉と、ピェール・ジャネの解離に対するヒルガードの新たな観点である新解離説に焦点を当てたものにさせていただいた。
 ヒルガードの著作はこれまで、『学習の理論』(第四版からG・H・バウアーとの共著、培風館)、『痛みの心理学』(ジョセフィーン・ヒルガードとの共著、黎明書房)、『催眠感受性』(誠信書房)などが翻訳されており、また、その名を冠した『ヒルガードの心理学』(第十五版、金剛出版)は心理学徒に圧倒的に支持され、広く読まれている。しかし、手堅い実験的手法で解離現象に取り組んだ本書は、欧米ではヒルガードの研究の精髄とまで評されながら、わが国に翻訳紹介されることはなかった。
 それはひとつには、心理学の特殊分野であるともいえる催眠を「探究の切り口」として用いていること、またもうひとつには、ヒルガードが臨床心理学とは対極にあるとされる実験心理学の大御所だったことが関係しているかもしれない。
 催眠に関して言えば、わが国の心理学の教科書では催眠は取り上げられていないかもしれないが、ヒルガードは催眠を.すでに手なずけられたものとして.心理学の中に正当に位置づけている。『ヒルガードの心理学』でも意識に関する章で催眠を取り上げている。そして実験心理学に関してであるが、実験心理学者のクラーク・ハルも、ロバート・シアーズも、そしてヒルガードも、今日臨床の重大関心事である解離の研究に取り組んでいたのである。早い時期に書かれた『学習の心理学』でも解離は取り上げられている。本書は催眠を切り口として用いているが催眠の本ではなく、冒頭に写真が掲げられているジャネと、何度も引用されているウィリアム・ジェームズを向こうに据えての心理学の本である。ただ、催眠の本質が何であるかも論じられており、催眠を理解するうえでも本書は貴重であるだろう。
 さて、本書は多重人格などの解離現象が米国において夥しく報告され出す以前の一九七〇年代に、当時ほとんど忘れられていたジャネの解離概念を取り上げ、解離を心理学のひとつの基本的な機制として実験心理学的手法で研究したものである。ヒルガードは、夢遊症、遁走、年齢退行、多重人格など、解離として理解しやすい現象ばかりでなく、夢、想像、心像などについても解離の文脈で考察をすすめており、さらには閾下知覚などにもふれ、解離についての考察が、今日大きく発展した認知心理学においても不可欠であるとしている。ジャネは、ヒルガードが述べているように、一九七〇年のH・F・エランベルジェ著『無意識の発見』(邦訳は一九八〇年弘文堂)によって復権を遂げていた。
 ヒルガードによる〈隠れた観察者〉の発見(彼はこれを再発見としている)は、心理学における一大金字塔とも言えるものである。この現象は、解離を考えるうえで重要なものであり、解離研究の第一人者F・W・パトナムも、また『行動の機構』(岩波文庫)を著した神経生理学者D・O・ヘップもふれているが、わが国ではごく一部の研究者を除けば、注目されることはなかった。訳者は一九八八年に『心理臨床学研究』誌に『特異な症状変遷を示した全生活史健忘の一例について』を発表したころに本書の初版を読み、この現象に深く印象付けられた。ヒルガードは隠れた観察者の存在は一時的なものであり、意識の蔭にひそむ持続的な別人格とみることは誤りであるとしているが、人間のうちのある割合の人たちに催眠下で〈隠れた観察者〉現象が見られることは、人生の困難な状況で、ある人たちに多重人格現象が生じることと、どこかで関連しているかもしれない。
 こうした興味深い現象とはまた別に、訳者は久しく臨床の世界でヒステリーは転換型と解離型といったような区分をそのままに受け入れていたが、本書の論考によって知覚脱失も運動麻痺も健忘もおなじ解離の機制であることを考えさせられたし、抑圧と解離の関係についての考察からも教えられた。ヒルガードの新解離説は、ジャネの解離説を、心理学における新たな知見を取り入れて、いっそう綿密に現代的なかたちに捉え直したものである。 訳者は早くから翻訳刊行の必要性を考えていたが、臨床の多忙と雑事にかまけて、それを果たせないでいた。杏林大学医学部を定年退職後、本格的に取り組み、完訳することができた。ずいぶん遅れてわが国に紹介される本書ではあるが、臨床の分野でもエビデンス・ベイストな研究が重視されつつある今日、本書の価値はいっそう高いものと思われる。今日、多くの解離現象に直面せざるをえない臨床家は、解離という現象を心理学という大きな枠組みの中で考えることが重要であるだろう。
 しかし、なにはともあれ本書は、さまざまな解離現象についてひとつひとつ取り上げて、観察と実験による証拠に基づいて論述し、やがて〈隠れた観察者〉現象について明らかにし、そこから新たな解離理論を展開しているその全体の流れ、構成がじつに巧みであり、訳者にとり、心理学の書物としてこの上なく面白いものであった。そしてその底には、かつて精神医学者安永浩氏がヒルガードらによる著書『科学としての精神分析』(岩崎学術出版社)を評したように、「清澄な真理探究者の心情がさわやかに流れている」のである。
 本書には、夫人で精神医学者のジョセフィーン・ヒルガードの臨床経験も適切に交えられている。夫人は一九八九年に、ヒルガードは二〇〇一年に亡くなられた。ヒルガードは九十七歳であった。ご夫妻の長期にわたる共同研究の成果でもある本書の翻訳出版のお許しは、ご子息のカリフォルニア大学サンタクルーズ校名誉教授ヘンリー・R・ヒルガード博士より戴いた。因みに博士のご専門は免疫生物学である。博士に深甚なる感謝を申し上げるとともに、仲介の労をとられた学樹書院の吉田和弘社長に深く御礼を申し上げます。本訳書が、解離現象について考えるうえで、なにか裨益するところがあれば幸甚である。訳者の思わぬ誤訳、不備な点があれば、ご寛恕をお願いしたい。
 末尾になりましたが、今日出版がなかなか難しい本書のような大部の理論書の意義を認められ、刊行を快くお引き受けくださった金剛出版の立石正信社長およびスタッフの方たちに心より御礼を申し上げます。

二〇一二年十二月    児玉憲典