『嘔吐恐怖症−基礎から臨床まで

貝谷久宣監修/野呂浩史編
A5判/280p/定価(本体4,200円+税)/2013年1月刊

評者 神村栄一(新潟大学人文社会・教育科学系)


 心理学に,サピア・ウォーフの仮説と知られた理論がある。言語相対性仮説ともよばれる。虹について7つの色名をもつ言語を使用しているから「虹は7色」に見える。つまり,「言語と認識」の枠が人の知覚を規定しているという。
 かなり強引な仮説で,正誤を問われれば,正しくない,と言わざるをえないのだけど,至極納得。
 旧「神経症」に含まれる心のトラブルについて,DSM診断の浸透によって認識されにくくなっている疾患・問題の塊はまだある。「嘔吐恐怖」も,そのひとつか。外野と内野の間にぽとり,と落ちるあたり損ねのヒットのように。ついでに脱線するが,書評子が最近気になっているもののひとつが「脇見恐怖」。社交不安障害や対人恐怖症の中核群からは距離がある。
 で,「嘔吐恐怖:基礎から臨床まで」(貝谷久宣監修・野呂浩史編)。帯には,「世界初の嘔吐怖症モノグラフ」とある。6章ずつの「総論」と「各論」からなり,「総論」では,特定の恐怖症における位置づけ,病態と治療,鑑別,躁とうつとの関係,関連尺度の開発とエクスポージャーについてが,さらに「各論」では,認知療法,行動療法,森田療法,ERDRの介入についてと「がん患者において」,「小児・児童期において」の解説がある。いずれもコンパクトで読みやすい。
 書評子の嘔吐恐怖の最初の事例は,ずいぶん前になる。嘔吐に対する予期不安のため「ラッシュ時の電車に乗れない」からついには「全ての公共の乗り物がダメ」へと広がりつつあるという主訴であった。パニック発作のエピソードもあった方で「広場恐怖を伴うパニック障害(軽度)」と(医療機関での診断も同じ)という「理解枠」で支援させていただいた。簡単な筋弛緩訓練と段階的な現実エクスポージャー,発症前からつらくなっていた職場での人間関係のストレスに対する認知行動療法介入の組み合わせで,回避行動の軽減に成功し,主観的不安,対処の自信が高まった。その後,こだわりやとらわれの強いタイプでは難航することを学んだ。
 その後あちこちの事例発表で,嘔吐恐怖にもさまざまなバリエーションがあることを知ったが,本書のおかげでずいぶん整理された。上述の,@「嘔吐する自分に対する周囲の(冷たく,嫌悪的な)目」に対して,非合理ともいえる否定的な思い込みが強いことによる広場恐怖タイプ,の他,A嘔吐する苦痛,に,身体的な脅威が過大で広場恐怖を呈するタイプ,B嘔吐につながるトリガーへのとらわれが強く(身体表現性障害にあるような過剰な意識の統制不能感による),それがゆえに常に嘔吐への恐怖を抱いてしまっているタイプ,C身体疾患,治療の副作用などもあって,さまざまな関連刺激にまさに条件付けられた結果,実際の嘔吐や激しい嘔気に苦しむというタイプ,などらしい。関連して,個人的には,10章(森田療法によるアプローチ)が特に興味深かった。認知行動療法をメインのアプローチとする書評子にとっても,目から鱗だった。森田療法によるとらわれの分析は,認知行動療法による丁寧な機能分析につながる。ニッポン万歳。機能分析が不十分な認知行動療法では歯が立たないケースは,嘔吐恐怖にも多そうだ。
 「総論」で紹介されている疫学的調査結果,併存症に関する資料など,実践や研究上にも有益なものが紹介されている。本書の刊行は,2011年2月開催の第3回不安障害学会でのシンポジウムがきっかっけだったらしい。ともすれば見逃されがちな,ポテンヒット的症候群に,研究や実践のスポットライトがあたるのは好ましい。ブルドーザーで地ならしして宅地開発するかのような,エビデンス研究ばかりではつまらない。その先駆,よきモデルとなるのでは,と思わせる1冊。