『アンチスティグマの精神医学−メンタルヘルスへの挑戦

ノーマン・サルトリウス著/日本若手精神科医の会(JYPO)訳
A5判/280p/定価(本体4,600円+税)/2013年2月刊

評者 佐藤光源(東北大学名誉教授)


 サルトリウス教授は世界保健機関(WHO)メンタルヘルス部門の部長を長年務め,世界精神医学会(WPA)や欧州精神医学会の会長を歴任し,精神保健の向上に地球規模で取り組んできた著名な精神科医である。
 英文表題のFighting for Mental Health が「アンチスティグマの精神医学」と訳出されているが,その意図は表紙絵に暗示されているようである。がらくたの山を掻き分けて探し物をしている人々の姿が描かれているが,「Niemat en kent he serve;誰も自分自身のことをわかっていない」と題したブリューゲルの作品であり,症状群を記述することで診断分類をしている精神科特有のあいまいさが,研究を妨げ一般の医学分野と距離を生じていることへの鋭い風刺のようである。
 著者は8歳のとき,第2次大戦中にユーゴスラビアのパルチザンに加わった小児科医の母に同行し,敵から身を守るために道路わきでじっと身を潜めていたときに一度だけ情景幻視を体験したことがある。私はその話を別の本で読んだが,本書の序文には,医学部を選び,やがて精神科医になって統合失調症の思考過程の研究で学位を授与されたことや,精神医学の実践で求められる知識と理論をもち合わせていないことに気づいて,公衆衛生学の手法で精神医学の社会的役割の理解を深めていった経緯が記されており,それは医学生や精神科医にとって含蓄に富んだものである。
 本書はメンタルヘルス総論,一般医学とメンタルヘルスの関係論,精神医学およびメンタルヘルスの実践論の3部構成で,自選の19編のエッセイが収められている。いずれも精神医学とメンタルヘルスの本質に係わるもので,いまわれわれが直面している問題である。章ごとに論点を絞って,メンタルヘルスの深い洞察と当代きっての知性をあわせもつ著者が,洗練された筆致で論じている。メンタルヘルスの現状に痛烈な批判を加えたかと思うと,disease, illness, sickness のコンセプトの違いを引き合いに医学における精神医学の立ち位置を明快に示し,さらに医療現場でのニーズのとらえ方や新しい治療関係の構築も取り上げている。
 一般医学におけるメンタルヘルスの限界や高齢者のメンタルヘルスの章は,いずれも日本がいま抱えている課題であり,国際感覚で研ぎ澄まされた著者の論点と主張が直ちに読者に届くに違いない。精神科医はもちろん,医学生や医師,メンタルヘルスの専門職には待望の一冊に違いない。
 著者が精神障害へのスティグマの解消に向けて,WPAに地球規模のプロジェクトを立ち上げて長年取り組んでいるのは周知のことであるが,精神医学やメンタルヘルスケアの理解を深める本書は,アンチスティグマの本質にせまるものである。
 本書の翻訳は,実に平易で読みやすい。若手精神科医の会(JYPO)が翻訳にあたって何度も推敲を重ねたようであるが,確かにその努力が実っている。

原書 Sartorius N : Fighting for mental health :A Personal View