本書は,精神分析的な方向づけを持った心理臨床家が,臨床家として成長してゆく過程を,多くの執筆者のご協力をいただき,あたかも一人の臨床家のライフサイクルの展開や発展かのように模して記述したものである。
 臨床家の生き方やライフスタイルなどは,それぞれの臨床家の好みであって,今更取り上げる課題ではないと考える向きもあるだろう。またすでにその観点からは成書もあるし,なぜわざわざこのような企画を世に問うのかという疑問も湧いてこよう。編者である私がこの企画を考えたのは以下の2つの理由からである。第1は,臨床家の生き方やライフスタイルなどを扱った成書としては,開業臨床領域のものや臨床家としての臨床作法のあり方などの立派な著書が多数ある。これらは,いずれもすべて30から40年以上の臨床経験を持つベテランの手に成るものである。私はむしろ今このとき,臨床場面の実践・研究・教育の各領域で,職能力を挙げようと模索を繰り返し,心理臨床の役割遂行に努力を重ねている中堅の生き方そのものを掬いあげて,その努力の様をそのままの言葉で,若手の臨床家に届けたいと考えたのである。
 第2の理由は以下の事柄だった。私が16年前に,臨床現場から大学に職を移してから,時折,学部生や大学院生から心理臨床家の将来について相談されることがあった。「これから私たち心理臨床家として,将来どんなライフスタイルがあるのか。そのためには,どんな課題や臨床研修や基礎的な勉強を進めてゆけばよいか」と,当然の相談だがなかなか一言では答えづらい問いであった。また相談といっても,多くはゼミ合宿や若手臨床心理士との交流会などの酒が入った席での雑談として語られるだけで,あまり深まらない軽い話で,私も横に置いていた。
 しかしながら,今から8年前,臨床心理士資格を取得したばかりの若手の勉強会においても,まさに同じ疑問が問い返された。同じ頃,日本臨床心理士会の役員の一人として,会の運営と会員の将来設計をどうするか話し合う機会があった。その折,全国の指定大学院の院生約1,600人が毎年臨床心理士資格を取得しており,このまま入会すると今後資格取得後5年未満の方が8,000人も増える会員構成となることを聞いた。早速,それらを見越した今後の会の方針に関わる就労問題とともに,心理臨床家としてどんな生活設計を描き,職能力を高めるための共通の基礎的な勉強や研修はどうあるべきかを検討したいと願った。しかし,内部的な検討は成されたが具体案は実現化されずに持ち越されたままになった。
 このたび,私の大学退職を契機に,この心に残していた“職能力を高めて,心理臨床家として成長してゆく過程”を我々として,何らかのかたちで若手臨床家に提示できないかと仲間と相談した。そこで,これまで我々が20年余り,私的にだが積み上げ練り上げてきた精神分析的な心理臨床家の職能力を高める方法と,臨床家として成長してゆく過程の一端を提出することになった。書名にも「心理臨床との出会い」として,執筆者のご協力をいただいた。
 本書に述べる臨床家の生き方やライフサイクルは,各人の心理臨床家としての自伝を述べたものではない。執筆者たちが心理臨床との出会いの折々に直面する,臨床家として成長してゆく基本的な精神分析的な学びや事例との対応,臨床現場との向き合い方や処し方などを,どう受け止め越えてゆき,切り開いて臨床家の自分を作っていったかが本書では示される。具体的には,事例に直面した際に学ぶものはなにか,臨床現場へ踏み出す困難や苦労から臨床家として何を得るのか,他職種の専門家との関わりの仕方や,難しい事例への対応の仕方,そこから臨床家としてどんなことを学んだか,さらには身近な臨床の課題を研究対象とすることをめぐる問題点,事例にコメントされたことからさらに学びとる方法,過去の事例の再吟味から見えてくる課題,そしてある世代になったとき上級心理臨床家として,スーパーヴィジョンや卒後研修の講師となることの苦労や喜び,その工夫などの心理臨床家人生の軌跡がそこには描かれる。
 思い返してみると,臨床家人生には,発展と栄光あるいは挫折と衰退など,悲喜こもごもがそれぞれにあろう。臨床家としての切り開き方も,どのようなタイミングでどんな臨床場面に職を得たか,どのような先輩や他職種の専門家と出会ったかなどの運も味方にして進まなければならない。またあるときには,強力な学会のリーダーが海外から導入した理論や技法で臨床現場が席巻され,混乱し治療方針が見えなくなることもある。これまでの臨床的な実感も揺らぎ自信を欠き,クライエントの前にも立ちたくない想いに苛まれたりもする。逆にクライエントに感謝されて,臨床家として自己効力感を高め勇気を得て,かつ治療者としての自己愛が膨らみ,より社会に広がった心理臨床の支援に取り組み始める場合もあろう。
 このような種々の臨床家としての山谷の経験を通して一本立ちしてゆく。はじめ臨床家は,クライエントとの関わりに一喜一憂して自信を欠くとか,役立った喜びで有頂天となるなど振り幅が大きい。やがてすこしずつ定まり揺らぎも少なくなる。クライエントの差し出すさまざまな心の信号にも,また臨床家自らの内的な課題からも,程よく距離を置く位置取りが見えるようになる。的確に対応する事がわずかずつでも可能となる。すると臨床家としてのゆとりによって,人としての人生の歩みも次第に整い落ち着き,それなりの生き方を歩んでゆくことになる。実践家としての道,臨床研究者としての道,教育者としての道,それらを総合した道などである。
 そのために私は,心理臨床家としての職能力を高める共通の三本柱である臨床実践・研究そして教育の基礎的な勉強や研修が必要であろうと考えている。それは,自らの臨床実践を公共化する学会報告や事例検討や臨床研究調査を通して,人間の心の不可思議さに感動し,臨床家として共有した一貫性のある態度や姿勢を学び合い,普遍的な認識や理解にまで高めて,多くの市民への支援方法としてまとめあげ役立てることだと思う。
 さて,本書の構成は5部14章に分かれている。各部について素描しておこう。
第1部の【大学院での学び】では,大学院教育での力動的な実践準備教育の一つとしての心理アセスメントのグループ学習と,初めての学会発表までをどのように練り上げてゆくかの2章から,ケースへの好奇心と推理する面白さを実感する。一方,自己本位だった事例理解で,第三者に伝え共有する難しさを知るとともに,指導者との内的格闘の過程から浮かびあがる臨床の奥深さへの認識が述べられる。
 第2部は,臨床家として日常臨床で直面するクライエントとの種々の事態を【事例からの学び】としてまとめ,どう対応したかが提示される。事例理解の困難さ,中断ケースへの悔いの念,転移・逆転移のあり方と対応の仕方やセラピストの態度などの日常的な課題が取り上げられる。その課題に再び向き合うことで,新たな精神分析的な人間理解や関わりの視点が発見される。事例への繰り返し実施される素材の検討の日々の修練の大切さを我々に語りかけてくる。
 第3部は,初めて臨床場面に赴く戸惑いや心理臨床の専門性と独自性をどう他職種の専門家に理解していただくか,また心理臨床の専門的マネージメントや心理療法の関わりを有効に組織やクライエントに生かしてゆくか,また地域のメンタルヘルス活動まで広がってゆく方法が,【治療0期の実践】として意欲的に取り組まれてゆく。心理臨床の応用発展としても面白い。
 第4部は,臨床現場での身近な課題であるひきこもりや低体重児などを調査研究対象に据え,そこから得られた研究知見を臨床に応用する堅実なやり方と,新しい臨床研究手法が試みられている。調査研究自体を事例検討する手法の試みや,事例に与えられたコメントを比較心理療法研究の観点から再吟味し,各学派の共通性や相違点を抽出するなど,【研究者として】の視点を通して,知見を臨床実践に還元するとともに,新たな方法論を模索し,自らの職能力を高めることに努めている点で示唆に富む。
 第5部は,臨床の先導者であるスーパーヴァイザーや卒後継続研修会の指導者としての役割を担うことの意義や重さ,そして次世代にどのように臨床教育を伝えてゆくべきかなどの【教育者として】の役割を引き受ける覚悟や心構えが語られている。職場では好むと好まざるとにかかわらず,年長者として必ず若手指導でこれらの役割が担わされる。転ばぬ先の杖と臨床家の生活設計に盛り込みたいし,職能力をつけておきたい課題の一つである。
 一人の臨床家が育ち成長する過程では,言うまでもなく多くのクライエントや臨床場面の特質,課題内容の特性,組織や職場の人間模様との出会いに加えて,臨床研修のあり方やスーパーヴァイザーや臨床教育の仲間たちとの出会いを含むさまざまな影響が働いている。しかし,具体的に院生や若手臨床心理士が心理臨床と出会い,そこからどのように臨床家として心理臨床のライフサイクルを刻んでゆくのかは,それぞれの個人的な努力に委ねられるだけで,これまでことばにされることは少なかったのではないか。
 本書は,中堅が今まさに,臨床と挌闘して臨床家人生を突き進んでいる様子が示されている。多数の執筆者によって記述されているのに,あたかも一人の若き臨床を志す学徒が,次第に心理臨床家として自らの臨床家人生を描いてゆくかのような様を読者は経験されると思う。そんな経験の一助として本書が役立つことになれば幸せである。
 最後に,本書は多くの執筆者のご協力のもとで刊行されたことをまず申し上げ,そのことに御礼申し上げたいと思う。また私と共に,執筆者でかつ細かな編集作業に当られた古田雅明氏,森本麻穂氏,加藤佑昌氏のご協力があって作成にまで辿りこぎつけることができたことを記して改めて感謝申し上げたい。金剛出版編集部の藤井裕二氏,伊藤渉氏には辛抱強く原稿の集まりを見守り励まして頂いたことに御礼申し上げる。

平成25年1月 新しい心理臨床の旅をめざして
乾 吉佑