北海道浦河町をイメージさせる町のキャッチフレーズに「ようこそサラブレッド観光と乗馬のまち」がある。そのように町内には、三〇〇カ所以上の牧場に四〇〇〇頭をこえるサラブレッドが飼育され、初夏の緑の草原で草を食む光景は多くの人を感動させる一方、日高昆布に代表される海の幸も浦河の地域経済を支える重要な産物となっている。
 しかし、そのような表向きの資源のほかに、浦河に住んでいる人たちもあまり気づいていない地域の特徴の一つに医療、保健、福祉に関連したインフラの豊かさがある。後に詳述するが、人口一万三五〇〇人の小さな町に、知的、身体、精神、児童、高齢者関連の施設が集積し、精神科を持つ総合病院もあり、縮小傾向にあるといっても、保健所、福祉事務所(日高振興局)、ハローワークから裁判所、税務署、労働基準監督署まである。
 一九七八年からこの町で暮らす町民の一人であり、ソーシャルワーカーでもある私の問題意識の一つに、地域に住む人たちにとってあまりにも当たり前の風景である、生活に密着した基盤的な社会資源の豊かさに住民自身が気づき、地域づくりに活かすということがあった。そして、もう一つの問題意識に赤十字の使命である「保健医療など社会活動の推進」があった。
 戦後、医療のなかに福祉的機能(医療社会事業部)を持つことを使命とし、病気だけをみるのではなく、病を抱えた人の暮らしを支えることを重んじ、病院の組織のなかにそれを位置づけてきた赤十字病院は、その社会的使命として障害者や患者の社会復帰を支える仕組みづくりを地域といっしょに構築することを要綱のなかで謳い、特に一九九〇年代には、計画を立案し、その進捗状況を毎年本社に報告するということを続けてきた。一九七六年から当時の中尾衛先生たちの努力によってはじまった断酒会の育成や、精神障害者家族や当事者の自助活動は、そのさきがけであり、それが後の「浦河べてるの家」の活動へと引き継がれていくことになる。振り返ると、浦河の精神障害を持つ人への地域生活支援活動は、実に四〇年近くも続いてきたことになる。
 そのようななかで、浦河では、従来あまり繋がりのなかった知的、身体、精神の三障害領域の施設と医療機関が、二〇〇六年に障害者自立支援法が施行されたことをきっかけに、情報交換とスタッフの交流を重ねてきた。それが契機となり、二〇一二年二月には日高東部(浦河町・様似町・えりも町)地域で立ち上がった三障害領域の施設と精神科を持つ医療機関である浦河赤十字病院が参加した「共同型」の相談支援事業所が設立された。これは、地道であるが、今後の当地での住民を巻き込んだ地域福祉システムの構築に向けた重要な一歩であり、将来的には三障害領域を越えて、高齢者や児童領域も巻き込んだ地域住民のあらゆる困りごとに対応する総合的な相談支援体制の充実へと発展させなければならないと考える。
 このたびの企画は、前述の関係機関、施設に所属するスタッフやメンバーが浦河という地域で展開してきた精神保健福祉領域の日常的な生活支援の取り組みを、さまざまな角度から紹介したものである。おそらく、ここに文章を寄せていただいた方々も、企画がもちあがった時点では、浦河ではあまりにも見慣れた実践ゆえに、ここであえて取り上げる意図を測りかねるという思いもあったかもしれない。しかし、病院も含めて、施設入所(入院)型の福祉に偏りがちであった浦河が、地域生活支援を中心とした福祉サービスに転換するためには、医療・保健・福祉サービス提供施設や機関が経験とノウハウを活かしつつ、連携しながら、障害ばかりではなく、さまざまな生活課題をかかえる町民の地域生活をトータルに支える努力が必要になってくる。しかも、そのなかで忘れてはならないのは、地域の福祉を担うのが、施設や相談機関以上に住民自身であり、特にもっとも切実なニーズを持つ当事者自身でなければいけないということである。そのことへのこだわりが「べてる式」といわれる所以であり、浦河での長年の実践を支えてきた大切な理念である。
 ここで、最初にこのたびの企画のきっかけとなった浦河における精神保健福祉活動の意義について簡単に触れておきたい。一九五九年に、地元自治体の要請によって五〇床の精神科病床が浦河赤十字病院に設置されて以来、増床を重ね、ピークの一九八八年には一三〇床までに膨れ上がった精神科病床は、二〇〇一年の地域移行計画にともなう病床削減によって六〇床になっている。この計画を推進するうえで大切にしたのは、転院に頼ることなく地域で暮らすことを目標にした点である。
 それを可能にしたのが、一九八四年に設立された浦河べてるの家(以下、べてる)の存在である。当事者活動をベースに日高昆布の産直という起業を契機にはじまったべてるは、住まいの確保と働く場、そして、それを支える「仲間」という重要な資源を提供した。このことなくしては、病床削減を伴う地域移行は進まなかったといえる。そして、「入院患者」という立場から地域の住民となったメンバーに起きたことは、働くこと、恋愛、子育て、近所づきあいという当たり前.の生活の苦労であった。障害者自立支援法も施行される前の何もない時代に、そのことに対処するために、関係機関が頻繁に集まり、会合を重ね、あるものを寄せ集め、手弁当でいろいろと議論と工夫を重ね、地域で支える仕組みを積み上げていった。象徴的なのが、「虐待防止ネットワーク」であり、子育てに挑戦するメンバーを支える「あじさいクラブ」をはじめとする多様なプログラムの創出であった。
 精神障害を持った人たちが直面する生活上の困難を、個人的な問題に矮小化せず、一人の地域住民の切実なニーズとして社会化していく、つまり、「自分の苦労をみんなの苦労に」「みんなの苦労を自分の苦労に」していくプロセスが大事になってくる。今回の企画には、そのようなプロセスにかかわる多くの関係者・スタッフの実践経験が綴られている。
 このような取り組みの結果として、当初日高東部地域(人口およそ三万人)の精神科病床数(一三〇床)は六〇床へと削減され、一万人あたりの精神科病床数も病床数の多さで突出している日本全体の二八床を大幅に上回る四三床から二〇床に半減したことになる。しかし、OECD(二〇〇七年)の数値と比較しても、イタリアの一床は例外として、フランスの一〇床、アメリカ・カナダの三床、韓国の八床に比べると、まだまだ多いが、地域で診る、地域でケアするというビジョンにさらに一歩近づいた観がある。
 周知のように、浦河町を含む北海道日高は過疎地域である。先般発表された市町村ごとの平均寿命でも下位に位置し、子どもの学力テストなどの結果も同様の結果が出ている。失業率や生活保護受給率の高さ、所得水準の低さなど、そこにはさまざまな要因が絡んでいると思われるが、そのような地域課題が山積した浦河で精神障害を持つ人たちと積み重ねられて起業をベースにした実践から生まれた理念や発想は、ケアや対人援助の領域にとどまらずに、企業活動や防災を含めた地域づくりはもとより、アメリカのイエール大学における文化人類学の立場からの研究や、浦河で生まれた当事者研究絡みの国際的な研究プロジェクトが東京大学の研究者を中心に二件企画されるなど、哲学や思想の世界にも関心を呼んでいる。
 もし、浦河での地域実践がユニークだとするならば、それは、紛れもなく好条件に恵まれたからではなく、類まれな悪条件という好条件.によって生まれたものである。べてるの家の活動も、日高昆布という地域資源に恵まれた以上に、精神障害をかかえて生きることに自信をなくした若者たちという悪条件.なくしてははじまらなかったと言える。
 浦河での実践の普遍化のカギは、好条件からではなく悪条件からはじまったこと、そして、つねに悪条件が増し加わるなかで進められているところにある。 こうしている間にも、浦河という地域では、日々刻々と新たな難題が生まれ、地域住民の生きる苦労が積み上がっている。昨今、地元でも時折報道されている浦河赤十字病院の医師、看護師不足による経営危機も、障害を持つ人の地域生活支援を推進するうえでのもっとも身近なリスクであり、重要な地域課題である。
 今回ここに取り上げた実践は「今日も、明日も、あさっても、いつも問題だらけ……それで順調!」という言葉に象徴されるように、数多くの失敗体験に裏打ちされた三〇年以上にもわたる持続的、継続的な実践の一コマである。その意味でも、ここに集められた取り組みの報告やエピソードは、総合的で包括的な地域住民の生活相談・支援体制の構築に向けた取り組みの経過報告として読んでいただければと思っている。そして、それが実現した暁には、「べてる式」は、「浦河式」としてさらにバージョンアップされ、住民の地域を支える身近な社会資源として活用されることが夢である。
 最後に、このつたない取り組みが、同様の地域課題に直面しながら情熱をもって地域づくりに邁進する全国の人たちの一助になり、このことを通じて新しい出会いと交流が生まれることを願っている。

向谷地生良