はじめに

 本書は,私が九州大学人間学環境学府に提出した博士論文をもとに,一部修正加筆して作成したものである。
 私の九州大学大学院教育学研究科教育心理学専攻時代の研究テーマは,「課題動作における姿勢の研究」だった。運動短期記憶をする時にひとは何を手がかりに記銘・保持・再生するのか,その際,立ち方や坐り方など緊張感やボティイメージがどう影響するかを調べるというものであった。今回の学位論文との関わりでいうと,緊張感や心的構えとパフォーマンスとの関係を実験法によって検討したものであった。その研究スタイルは臨床心理学研究法に基づくものであり,当時は肢体不自由に対する臨床動作法適用の中で得た気づきを実験法で検証し,その知見を臨床実践に活用するというものであった。その成果の一部は日本リハビリテイション心理学会や日本心理学会で発表してきたが,ストレスマネジメントに直接的には関係しないという理由から今回の学位論文の中には含まれていない。
 しかし,その研究スタイルは,大学院博士後期課程単位修得退学後に鹿児島大学教育学部保健体育科に赴任してからも,その後,配置替えになった大学院人文社会科学研究科臨床心理学専攻(独立専攻)を経て,現在の大学院臨床心理学研究科(専門職大学院)を起ち上げてからも変わることはなかった。常に,始まりは臨床実践だった。
 学位論文で取り扱った内容は,鹿児島大学に赴任してから現在までの研究成果をまとめたものである。
 教育学部では保健体育科に籍を置きスポーツ心理学を担当していたので,競技選手や健常者の健康増進に役立つ研究に取り組むという学風の中で,競技選手の能力発揮やストレスケアという視点からスポーツカウンセリングを行なうようになった。その頃は臨床心理学的観点から競技選手のサポートに関わっている研究者が日本には少なく,本研究第2 章で紹介するように個別ケアからはじまり,次第に実力発揮を目的とした集団やチームサポートを依頼されるようになった。その後,プロ野球選手やプロゴルファーも来談するようになり,2000 年に開催されたシドニーオリンピックでは野球チームのスポーツカウンセラーとして帯同する機会を得たが,そこで関わった選手が現役選手として活躍している間は球団やマスコミによる選手評価に影響する事態に配慮して選手のプライバシーを守るという立場から心理的援助内容については未発表のままであり,本論でも触れていない。しかし,選手個々の能力や競技特性に違いはあるが,トップアスリートの心理的問題の理解と援助の基本方針については第2 章で紹介している内容と共通点が多いことを,ここで付記しておきたい。
 競技選手に関する臨床実践研究や,第3 章で示す集団を対象にしたストレスマネジメント技法適用に関する基礎研究が一段落しかけた頃,文部省(現,文部科学省)のスクールカウンセラー活用調査研究事業が始まった。それは,1995 年4月であった。当時,鹿児島県には臨床心理士が少なく,鹿児島県教育委員会と臨床心理士会からの依頼を受けて,経験も十分な知識もないまま教育現場にスクールカウンセラーとして派遣されることになった。派遣された高校では保健室登校や不登校の生徒が目立ち,彼らとそのご家族に対するカウンセリングや教師に対するコンサルテーションを行なうようになった。そうしている間にストレスケアだけでなく,ストレス予防という観点に立った具体的アプローチの必要性を痛感するようになった。生徒のストレス反応が目立ち,それに気づいていない教師が多かったからである。その翌年,文部省の若手研究者海外派遣事業の一環としてスウェーデンに派遣される機会を得た。催眠で著名なLars-Eric Unestahl 博士の元で競技選手のメンタルトレーニングを学ぶためであった。博士の催眠研究は実践的で,競技選手への適用はもとより,教育現場ではカセットテープに録音されたB.G.M. 付きの暗示によるストレスマネジメント教育が広がりつつあった。その後さまざまな出会いに恵まれ,社会人野球チームに関する心理的サポート経験と臨床動作法よる実体験に基づくストレスマネジメント教育への思いが強くなった。そして,第4 章で示す動作法に基づく「ペア・リラクセーション」を創案するに到った。その効果研究については第5 章で紹介するが,その確かな手応えを最初に実感して研究を後押ししてくれたのは,教師になった教育学部時代の教え子たちであった。子どもたちだけではなく,ストレスマネジメント教育を実践する彼ら自身が元気になっていく姿を目の当たりにして,“これは役に立つ!”と直感したことが懐かしい。それが契機になって教師のためのストレスマネジメント教育に関する研修会を開催するようなり,それは日本ストレスマネジメント学会設立の原動力となった。
 約30 年間にわたる研究成果を学位論文としてまとめるにあたって,最初は自分のために回想法に取り組んでいるような感慨に浸ることもあったが,新たに心的構えと体験に関する考察を深める中で長年私の中にあった疑問が解消された。それは,動作上に不自由を感じて来談した選手の中に,動作の問題が解決されるとイメージを体験してみたいと自発的に言い出す選手がいる一方で,良いイメージで試合に臨むことができず悩んでいた選手の中に,目指すイメージ体験ができると動作のことが気になりはじめる選手がいるということに対して,どのように理解するとよいかということであった。今回,この疑問に対する一つの答えとして,心理的活動の構造と機能に関する考察を深められたのは大きな喜びである。もちろんそのことは競技選手だけではなく多くのひとのストレスマネジメントに活用でき,将来的には,がんやさまざまな難治性疾患を体験しているひとにも応用できるのではないかと考えている。その可能性については第6 章で述べることにする。