本書は,精神分析的発達心理学を学ぶ人たちへの案内書として書かれたものであるが,さらに進んだ,洗練された考えに興味を持っている最近の読者も念頭に置いてある。そのためフロイトの基礎概念に解説を加えるとともに,最新の理論も紹介し,さらに,未発表の私見も加えてある。したがって初心者だけではなく,臨床経験を積んだ治療者や分析家にも十分役に立つものになったと思う。
 精神分析理論は,人間の精神病理についての一元的な理論だった(特に,フロイトの生きていた間は)。フロイトに賛同しなかったユング,アドラー,ホーナイなどの理論家は,精神分析家の群から離れ,自らの学派を作った。現在,事態はもっと複雑になっており,数多くの理論が生まれ続けている。しかも,フロイトなら拒絶しただろう多くの理論的革新も,今日のアメリカ精神分析学会と国際精神分析学会の傘下に入っている。古典派,主流派,最近では正統派とよばれるフロイト派からどの程度の距離にあるかは,ほとんど顧慮されていない。古典的な理論に加えて,対人関係論(interpersonal),間主観派(intersubjective),関係学派(relational),遠近法主義派(perspectivist),社会構成主義派(social constructionist)なども名乗りをあげている。
 新しい理論の中には,二者心理学(two-person psychology)と呼ばれているものもある。それは,患者と治療者の両方の心理がかかわりあって作用している,という考え方である。この考え方によれば,主流派の理論は,一者心理学(one-person psychology)と断定される。この術語は,分析家や治療者が患者とかかわらないことを意味している。このような形で仮想の敵が仕立て上げられ,空白のスクリーンとしての分析家は批判された。そのため,私は当たり前のことを言わざるを得ない。つまり,面接室に二人の人間がいるとき,一者心理学は成立しない。もし成立するならば,分析家は個人心理を持たない,という馬鹿げた結論に至るだろう。本質的問題は,人数の差異ではなく,分析家の役割についての視点の差異である。主流派の分析家は,いわゆる二者分析家(two-person analyst)と同様に,相互作用へ参加している。ただし,逆転移の利用方法が異なっているのである。
 主流派の分析家は,聴き,考え,解釈するだけはでない。患者と共に感じ,同一化し,共感し,情緒的に触れ合う。現在では主流派の分析家は,ステレオタイプな空白のスクリーン(患者の情動から隔たった,感じることのない道具)ではない。分析家が自らの思考と情動をどのように使うかを中心に議論が展開している。分析家は自らの感情を吟味し,自分の中に注入されつつあるものについて考える。それは患者を理解するためであって,自分自身の感情と対抗反応(counterreactions)を押しつけるためではない。
 ここまで述べれば,私の立場はもう明らかだろう。私は,主流派に属する現代の分析家である。私は物理的に面接室に存在すると同時に,情緒的にも患者と共にあり,沈黙の中でさえ相互作用している。したがって,自分を一者心理学的分析家とは考えられない。沈黙は,それだけでは分析的美徳にならない。しかし,患者に分析家が侵害しない間を与えるためには,時として沈黙が必要になる。分析家は,沈黙から生じる不安や不快感,そして,暴き出したい欲求によって,その間を埋めたくなりがちなものである。私は,ステレオタイプの沈黙によくあるような情のない沈黙をしない。実際的には,よく話すが,いつも熟慮してから話をする。これは,試行作用としての思考(thought as trial action)に似ている。話す前に考えることは,何も感じないことと正反対である。それは患者と治療過程を尊重することである。私は,自分が話すことが患者の最大利益になるか否かを考える。いわゆる二者分析家は,自分もまた自己開示によって患者に最大の利益をもたらしている,と主張するかもしれない。しかし,私が話すことは,自己開示とはまったく違う。
 私は,患者と「触れ合うこと」によって束の間ながらつながったと感じると,幸せな気分になる。それは,患者の語ることが引き金になって,患者と私の二人が同時に同じ情動を感じることである。私自身の人生経験は,患者の情動を理解し感じることを助けてくれる。しかし,そこに生まれる共振は,患者の人生の物語や情動から生じるものであり,私の中から生じたものではない。私の反応が,私の過去や現在の生活のどこから生じたのかを洩らしても,患者の利益にはならないだろう。
 本書の主眼は,最新の主流派の理論である。フロイト以降も,まさに今日ただ今まで理論形成は続けられており,将来も続くだろう。その意味では,本書の内容をフロイト派,古典派,正統派の理論と呼ぶのは,もはや妥当でない。むしろ,精神分析的発達心理学と呼んだ方がふさわしい。つまり,現代の諸理論を補った主流派の理論である。
 精神分析的発達心理学は,多くの理論が累積し,一つにまとまった理論である。特に子どもの早期の発達については児童観察派(child observationalists)から多くの知見を得ている(Emde, 1980, 1988a, b, 1999 ; Osofsky, 1979)1)。しかし,彼らの研究以前に自我心理学者たちによるパイオニア的仕事があり,その基盤があったからこそ児童観察研究が可能になったともいえる。ハインツ・ハルトマンはフロイトを基礎として理論形成をしたし,ルネ・A・スピッツはフロイトとハルトマンを基礎としている。そして,ロバート・N・エムディは,現在もフロイトとハルトマンとスピッツを基礎として理論を新しくしている。基本の理論は,新しい情報による意味の拡張や,時代遅れとなった部分の削除などの変更を余儀なくされることもある。しかし,新しい情報が基本的な理論に取って代わることはない。新しい知見が蓄積するにつれて,今日よりも明日の理論は豊かになっていく。
 私は,フロイト以来の精神分析の流れを主流派と呼ぶのが好ましいと考えている。オハイオ川はミシシッピー川に流れ込み,主流に50%の水量を供給して大きくなり,質的にも異なった川を形作る。古典派あるいは正統派と呼ぶよりも,主流派という呼び名の方が理論形成の流れを上手に伝えるだろう。この言葉を用いれば,主流をさらに豊かにした流れ,主流から離れてみる影もなくなった流れ,すっかり枯れ上がってもはや歴史的な関心しか持たれない流れなどの支流を表せる。また,新しい提案を評価するためにも役に立つ。主流の水をひきながら,主流から離れていく流れも表せる。
 主流派へ流れ込み,もっとも重要な貢献をしているのは自我心理学である。それは,1940 年代に構造論から派生したいくつかの理論の一つとして始まり,フロイト以後の理論構築に主要な貢献をなしてきた。現在では主流派と合流し,もはや独立した理論とはいえなくなっている。たとえば,以前ならば,論文執筆の際に分離個体化の概念に言及する際には,つねにマーラーら(1975)の名を上げる必要があった。ところが,現在では原典に触れることなくこの概念が使われる。これは執筆者の落ち度ではなく,自我心理学が確実に主流派と融合し,いかに主流派の流れを強めているかを示している。精神分析的発達心理学は,主流派の精神分析学である。フロイトの基礎的な理論に自我心理学が加わり,単なる寄せ集めを超えて溶け合い,より豊かな理論を形成している。
 1972 年,私たちは,「構造論がもつ推進力は計り知れない。構造論の理論を生み出す巨大な潜在力がどこに向かうか,まったく想像できない。50 年後であろうとも,構造論はさらなる未来へ向けて手を広げているだろう」と述べた(Blanck and Blanck, p668)2)。その当時,この予言がここまで成就するとは思っていなかったのだが……。
 本書では,第一世代の自我心理学者(フロイト,ハルトマン,ジェイコブソン,スピッツ,マーラー)の見解について,構造の性質,精神分析的対象関係論,転移,診断などの点から概観する。また,理論と技法を明らかにするために事例を提示して,望ましい治療形態について提案する(この事例の場合,それは精神分析であった)。それから,プラグマティズムにも敬意を払う。すなわち,外的要因のために治療を切り詰めざるを得ない状況では,同じ事例をどのように扱えるかを示したい。可能なかぎり,患者と治療者のダイアローグを例示する。
 最後に,1972 年の予言が成就したことに勇気を得て,あえて理論構築の今後の方向性についても予言したい。

〈原 注〉
1. オショフスキー(1975)は,自我組織化についてのスピッツの概念を受け継ぎ,スピッツの提示した線に沿って乳児の発達を精緻化した。
2. ブランクとブランク(1972)は,発達について書かれた12 冊の著作を検討し,互いに矛盾しない点の統合を試みた。スピッツとマーラーの研究が抜きんでており,彼らの研究は,互いに補いあって,精神分析的発達心理学の統一に向けて,多くの貢献をなしていることが明確になった。