本書は,患者やクライエントを理解することから,その理解を言葉にしていくことへ,という移行をどのように成し遂げるかをテーマとした治療技法についての本である。心理療法の領域における現在の文献や訓練プログラムには1 つの欠落がある。そのため,学生治療者は(かなりの経験を積んだ治療者でさえ)「私はこの患者に関して何が起こっているのかを理解しているつもりだが,実際問題として,この患者にどう言うべきなのだろう?」と感じたまま,にっちもさっちも行かなくなってしまうのである。本書はこの欠落を埋めようとするものである。本書において私は,治癒と変化の過程に貢献するために治療者は何を言うことができるかをきわめて具体的かつ詳細に検討しようと思う。患者の自尊心を傷つけたり不必要な苦痛や抵抗を引き起こしたりすることなく,困難な真実や恐れられた傾向に患者を直面させるための治療的な伝え方を見出すことが本書の目標である。
 本書は実用的な本であるが,同時にまた,理論的な探究の書でもあり,最近の研究成果を探究する書でもある。本書においては,心理学的な障害や心理学的な変化に関する統合的な理論,すなわち,心理力動的な伝統に根ざしつつも,認知行動論的アプローチ,システム論的アプローチ,ヒューマニスティック−体験的アプローチなどの他のアプローチの発展にもかなり依拠した理論が提示される。本書の全体を通して,臨床的介入のためのさまざまな原理が詳述され,読者には,なぜある言い方が他の言い方よりも推奨されるのかについて,理論的な説明が提示される。
 本書の中心的な焦点は,言い回しや意味のニュアンスにある。本書に論じられているようなニュアンスの違いは,純粋に治療的なコメントと,患者が治療に持ち込んだまさにその問題を知らず知らずのうちに永続化させてしまうようなコメントとを,決定的に区別するものだと私は信じている。しかし,この側面が実践上いかに重要なものだとしても,それだけで巧みな臨床実践ができるようになるわけではないことは明らかである。たしかに本書はコメントの表現の仕方,すなわち解釈やその他の患者へのメッセージを正確にどのように言葉にするかを非常に重視するものではあるが,本書の関心は決して言葉づかいや言い回しのみに注がれているわけではない。本書の第1 部のいくつかの理論的な章は,効果的な治療作業が備えるべき諸方法や諸過程の包括的な像を提供する。また,本書の全体を通して,ある特定の臨床状況において治療者が何を言うのかについての選択肢が検討される際にも,それらの選択肢は,変化への推進力を作り出す一連の諸要因の文脈のなかで考察されるのである。
 この本はわれわれが用いる言葉の意味を扱うものであるから,われわれの言葉が,歴史上の長きにわたって,まるで人間には1 つの性別しかないかのように表現する傾向を示してきたために生じている問題にとりわけ関心を払う必要がある。一般的に人間を指すために「彼」を用いることに問題があるということは,今や広く認識されている。しかし私は,この言語上の問題に対して十分に満足のいく解決策を知らない。「彼または彼女」という言い回しで一杯の文章は非常に読みにくく,また,複数形しか用いないことにすると,読者に具体的な1 人の人間を想像してもらうことで伝わるはずの臨場感が失われてしまう可能性がある。この問題に対処するために,私は次のような方策を採ることにした。すなわち,そこで意味されている一般的な人間が治療者である場合には「彼女」を用い,患者である場合には「彼」を用いる。
 この方策にはいくつかの利点があるように思われる。まず第一に,この方策を採れば,いつも2 つの代名詞をセットで用いる煩わしさを避けられるし,複数代名詞しか用いないという制約も避けられる。そのうえこの方略は,われわれの伝統的な言語表現の問題の基礎にあって最もよく見られる偏見やステレオタイプを,より直接的に扱うものともなっている。われわれのステレオタイプでは,専門家の「先生」は男性である。そして,しばしば患者には女性が多いと想像されている。本書で採られた方策はこのステレオタイプを逆転させている。それは,われわれの領域における専門家の多くが女性であるという事実に注意を喚起している。そして,治療を受けている個人や心理的ジレンマに捉えられた人々を男性代名詞で表すことによって,男性代名詞のより因習的な用法を逆転させている。さらには,男性代名詞と女性代名詞をそれぞれ系統的に区別して用いることで,治療者と患者の両方の反応や感情が論じられているくだりにおいても,読者により明瞭に文意を伝えることが可能になる。
 われわれの「先達たち」が遺したこの困難な言語表現上の問題に,完全な解決策など存在しない。しかしながら私は,私が採用した方策が,一方では表現の明瞭性と適切性を保証しつつ,他方では,人類の半数の感受性に注意を払い,また,男女双方の可能性の十分な認識を妨げてきた先入観に挑戦する必要性に注意を喚起するという,(しばしば競合する)2 つの目標に関して,かなり役立つものであると思う。
 また別の言語表現の問題として,私は「患者」と「クライエント」のいずれの言葉を用いるかを決定しなければならなかった。ある種の治療者は,自分が対処している相手を対等の立場に置くような感じがするという理由から,「患者」という言葉よりも「クライエント」という言葉を好む。しかしながら,本書において私は,これまで通り,「患者」という言葉を主に用いることにする。これは1 つには,単に私がその言葉に慣れ親しんできたために,私にとってはそのほうが居心地よく自然に感じられるという理由による。また1 つには,「クライエント」という言葉は,その関係の職業的な側面を強調しすぎる感じがするという理由による。たとえば公認会計士はその仕事相手をクライエントと呼んでいる。心理療法家がそれと同じ言葉を用いるのは,私には満足できない。
 もちろん,「患者」もまた問題を孕んだ言葉である(実際,この一筋縄ではいかない人間関係を記述するにはどんな言葉でも問題を孕んでいる)。しかし,何年も前になるが,私が妻とともにケープコッドで主催したワークショップで,ある参加者は,私を安心させるような指摘をしてくれた。というのは,患者という言葉のラテン語の語源は「苦しむ者」であるが,クライエントという言葉の語源は「依存する者」だというのである。したがって,「患者」という言葉が相手の品位を傷つけたり見下したりするような意味合いを帯びているかもしれないという理由からこの言葉を避けるのであれば,それに代わって「クライエント」という言葉を選択するのもあまり適切とは言えない。またこの指摘に従って考えると,人を治療に連れてきたものや,その人と治療者との関係を定義しているものを伝えるうえで,「患者」という言葉は決して悪い選択とは言えないのである。
 最後に,言葉に関するもう1 つの問題について一言。私は,難解な文章は,それが深遠であることを反映するものではなく,考えが不明瞭であることを示すものだと強く確信している。私はできる限り難解な専門用語を排除し,治療者のオフィスで何が起こっているのか,なぜ治療が効果を上げうるのか,どういう場合に治療は行き詰まるのか,といったことについて,自分の見解を明確な言葉で表現しようとした。恐ろしく難解な文章には,微妙に権威主義的なところがある。そうした文章は,「お前はこれについて何らかの判断ができるほど十分に利口ではないのだ」という暗黙のメッセージによって批判を斥けようとしているのである。私の書いていることに同意するかどうかはともかくとして,私は読者が自分は十分に利口であると感じることができるくらい,本書の文章が明瞭と感じられるものであることを願っている。
 本書は私自身の実践,ならびに,さまざまな背景をもった実践家や学生を対象とした教育,スーパーヴィジョン,ワークショップの経験に大きく依拠している。患者(私自身の患者,ならびに,私の学生やスーパーヴァイジーの患者)との臨床的な相互作用の具体的な詳細を引用するにあたっては,彼らの匿名性が確保できるよう留意した。患者の名前だけでなく,患者を同定するための重要なプロフィールの特徴は,患者のプライバシーが保護されるよう,加工されている。
 扱うテーマの性質上,必然的に,本書には豊かで詳細な臨床的記述が挙げられている。議論の多くは臨床実践の具体的場面に基づいている。私は本書全体を通して,記載された原理が実際の臨床場面でのやりとりにおいてどのように運用されるのか,読者がよく理解できるよう導くことを心がけた。特に最後のいくつかの章において私は,患者と治療者の間の対話がどのように展開し,徹底操作の過程がどのように進行するかについて読者に感じをつかんでもらうために,セッションの詳しい抜粋を提示している。具体的な臨床素材の強調は,ある意味で論述の説得力を高めるものではあるけれども,最終的には,提示された臨床素材は証拠としてよりも1 つの例証として理解されるべきものである。究極的には,治療において患者の求める変化を達成するにはどうするのが一番よいかをある程度確実に主張するには,系統的な調査研究が必要であろう。 他の論文において論じたことだが(Wachtel, 2010a),どの治療アプローチが経験によって支持されているか,つまりエビデンスに基づいているかという問題に対して,近年与えられている回答は,しばしば混乱したもの,制約のあるものとなっていると私は考えている。その論文のなかで私は,われわれが責任をもって臨床実践に取り組むための,より幅広く柔軟な基礎となるような研究や考えを生み出してきた多様な研究者の業績を引用した。多様な学派の優れた研究者たちが,心理療法についての実証的な調査が,特定の治療アプローチの有効性についての理解を深めるはずの背景的原理や媒介変数に注目せずに,特定のセラピーの「ブランド」とマニュアル化された治療「パッケージ」の妥当性を認めることばかりに焦点づけてきたことに,危惧を表明してきた(Ablon, Levy & Katzenstein, 2006;Allen, McHugh & Barlow, 2008; Castonguay & Beutler, 2003, 2006; Ehrenreich,Buzzela & Barlow, 2007; Goldfried & Eubanks-Carter, 2004; Kazdin, 2006, 2007,2008; Rosen & Davison, 2003; Shapiro, 1995 )。
 おそらくより重要なのは,「経験的に支持された」標準的治療の多くが確かに「有効」(何らかの統制群よりも良い結果を得るという意味で有効)であるときでさえ,その結果はしばしばパッとしないものであるのはなぜなのかをよりよく理解するためには,心理療法研究の目的と方法についてのこの新たな見解が必要不可欠だということである。治療の価値を支持する根拠として引用されている研究の多くにおいて,そこで得られた効果は,臨床的に意味があったというよりも,統計的に意味があったと記述されるべきものである。すなわち,「改善した」患者の多くは,なおかなりの機能不全を呈しているのである(Kazdin, 2006, 2008; Westen, Novotny & Thompson-Brenner, 2004 )。
 さらに,これらの研究の多くにおいてはかなり短期のフォローアップしかなされていない。長期にわたるフォローアップがなされた場合には,その結果はしばしば失望的な程度にまで低下している(Westen et al., 2004; Shedler, 2010 )。ビュートラー(Beutler, 2004 )が指摘しているように,マニュアル化された治療パッケージの妥当性を認めることに焦点づけた研究は「ある治療モデルを他の治療モデルと戦わせたり,治療モデルを治療関係と戦わせたりして,ドグマ戦争を引き起こす幅広い傾向」(p.229 )をもたらしているのに対して,治療の成功を説明する背景的原理に焦点づけた研究は,われわれの治療者としての有能性をじっくり時間をかけながら高めていくことに役立ちうるものである。
 実証性への関心が高い読者には,本書ははっきりと臨床的な方向性をもったものではあるものの,本書に述べられている定式化にはさまざまな面で調査研究への示唆が含まれていることが明らかに見て取れるであろう。もちろんそれは,有用な調査研究を,マニュアル化されたパッケージの評価に限定せず,より幅広く見ていく見地に立つことを前提としてのことである。本書に提示されている原理や仮説の多くは,きわめて明瞭に,経験的な検証に開かれたものである。治療者のコメントがここに唱道されている原理のあるものを具現しているかどうかを評定し,セッション中のその即時的な結果を調べるプロセス研究を想定することは容易であろう。同様に,治療のサンプルがこうした原理のあるものを具現化しているかどうかが評定され,そのうえで,その治療の成功や失敗との関係が評価されるような結果研究を思い描くこともまた難しくはないだろう。
 本書の理論的部分でも臨床的部分でも強調されている,循環的パターンという面から心理学的な問題を概念化していくことの重要性を示す研究は,より実現困難なものとなるだろう。現在この領域において優位な原因結果の直線的な定式化が,実はより大きな循環的パターンの一部に過ぎず,その大きな循環的パターンを十分に理解することができればわれわれの理解と治療の可能性はかなり高まる。もしこのことを示そうとするなら,そうした研究はいっそう複雑で洗練された計画を必要とする。とはいえ,そうした調査は可能である。私は,他の文献において,本書に記載された臨床的作業を導く循環的定式化と関連する代表的な研究を概観した(Wachtel,1994; Wachtel, Kruk & McKinney, 2005 )。健全な人格パターンであれ,深刻な精神病理であれ,それを維持している複雑なフィードバック・
ループについての調査研究は,新しい方法論を求める革新的な研究者にとっては挑戦しがいのある有望な研究テーマとなるものだと私は信じている。私は,本書に提示されている考えを経験的に検証しようとするあらゆる研究をしっかりフォローしていくつもりである。そうした研究は,必ず,本書に提示されている考えの修正やさらなる発展を要請するであろうし,また刺激するであろう。私はそれを楽しみにしている。
 シドニー・ブラット,ケネス・フランク,スタンレー・メッサー,デヴィッド・ウォリツキー,そしてダニエル・ワイルは本書の初版の原稿を精読し,非常に有益なコメントを提供し,それによって本書の初版に価値ある貢献をしてくれた。そのことをここに記すことができて嬉しく思う。彼らのコメントは,情に流されていないと同時に支持的なものであり,私の自分自身の仕事に対する評価を大いに豊かにしてくれた。 この第2 版は,初版の基礎のうえに成り立っているけれども,大幅にアップデートされ,改訂されたものである。第2 章と第3 章[.注1 ]は,この領域における主要な理論的潮流における最近の発展を概観するために,第2 版で新たに加えられた章である。けれども,こうした発展の影響は,この2 つの章のみならず,本書の全体を通して見て取れるだろう。いずれの章においても,こうした新しい発展や新しい重要な文献についての議論が加えられている。そしてそれによって,その章で検討されている臨床的な題材の理解は,よりシャープになり,より深みを増している。
 私の妻エレンもまた,初版についても,そしてこの第2 版についても,すべての章を読んでくれ,フィードバックを与えてくれた。彼女は,そのうえ,もう一歩踏み込んだ貢献をしてくれた。彼女は1 つの章を書いてくれたのである。本書に記述された諸原理と,自分のカップルセラピー(彼女が特に習熟している臨床実践の形態)のやり方との間には何か共通するものがあると感じて,彼女はこうした諸原理の夫婦療法への適用について,1 つの章を執筆することを申し出てくれたのであった。私はこれを喜んで受け入れた。その結果がこの第2 版の第15 章「夫婦に対する治療的コミュニケーション」である。私は,この章が本書の価値を高めてくれたことに関して彼女に感謝している。長年にわたって彼女が与えてくれた愛情に関しては,さらに感謝している。

[.注1]第3 章の一部は,John Wiley & Sons 社の許可を得てワクテル(2010c)から転載したもの
である。