Lost in Translation

 昨今のうつ病の拡散をめぐる議論など,精神科診断は,現在もなお議論に事欠かない。1970年代に実施されたUS-UK Diagnostic ProjectやInternational Pilot Study of Schizophreniaの国際共同研究から,国ごとに精神科診断や臨床評価のバラツキは大きく,精神科診断の信頼性が低いことが明らかになった。こうした時勢を受け,アメリカでは,当時のアメリカ精神医学では少数派であったKraepelinによって代表される記述的診断を奉じていたSpitzerらが,まずは精神科診断の標準化を図るべく,記述的診断を重視しながらも,信頼性を確保するため,明快な操作的な診断基準を採用したDSM-III(1980 )を作成した。この操作的診断体系は,それ以降DSM-III-R(1987 ),DSM-IV(1994 ),DSM-IV-TR(2000 )と改訂されるも,基本コンセプトは踏襲されつづけ,2013年にDSM-5が発表された。DSM診断の誕生の経緯を振り返ると,精神科診断を医学の問題として位置づけ,病因の解明が十分でない中,「とりあえず」の診断分類の標準化を図り,その信頼性を高めていこうとする一連の取り組みであったといえよう。
 私は,伝統的診断で教育を受けた世代の指導医から,伝統的診断とDSMやICDといった操作的診断でも臨床教育を受けた世代の精神科医である。症例検討会において,この患者の診断は,伝統的診断では○○となるが,操作的診断では△△になるといったように,症例を多面的に捉えることができ,たいへん勉強になった。こういった検討会の場で,たびたび精神医学をあまりにも単純化したチェックリスト型の診断と,操作的診断への批判がなされ,研修医であった当時の私としては,実は,DSMは何か浅薄なものといった印象を持っていた。
 DSMに対する見方が大きく変わったのは,私がアメリカに留学した際に,いくつもの診断面接に陪席していた頃である。その診断面接は,まず作業同盟の構築を主眼に,医師と患者との豊かな対話から始まり,対話と観察を通してその患者のhistory(文脈情報)をある程度理解した上で,現在の困っていることを把握しながら,横断的な症状を整理し,DSM診断を行うといった具合であった。こうした診断面接の多くは,大学病院であったためか,DSM診断の半構造化面接(Structured Clinical Interview for DSM-IV)を用いて行われていた。私は,DSM診断面接において診断基準が合致するか否かの診断モジュールに入る前の導入部(overview section)がこれほどまでに豊かなものとはまったく想像しておらず,私が抱いていたDSM診断は,チェックリストといった浅薄な印象は,もろくも崩れていった。さらに,治療計画の立案に際してはDSM-IVのI軸診断のみで行われることはなく,II軸からV軸の多軸,特に治療の予後に関連するIV軸の心理社会的,環境的問題が入念に検討され,症例の定式化(diagnostic formulation)を行い,これをもとに治療選択が行われるといったように,臨床判断が実に鮮やかになされていく過程がたいへん衝撃的あった。この時に私は,DSMの使い方を十分に理解していかなったことを痛感した次第である。
 DSM-5 Section I の冒頭に,「DSM-5の最も重要な目的は,熟練された臨床医による症例定式化のための評価の一環で実施される精神疾患の診断を補助することであり,それが各々の患者に対して十分な説明に基づく治療計画を立案につながるのである」とDSMという「マニュアルの使い方」の項に記されている。しかし,わが国の臨床教育では,このマニュアルとしてのDSMの使い方が,上手く伝えきれず,操作的診断基準に目がいってしまって表面的に使われ,安易な診断がなされることも少なくないといえよう―lost in translationである。本書のサブタイトルは「DSM-5の上手な使い方」であるように,本書の著者であるAllen Frances 博士は,過剰診断をもたらす安易なDSM診断面接の実践をどのように避け,診断面接に臨む際に,臨床医としてのどのような点を注意すべきかを本書で説明している。私は本書を読みながら,本書は単なるDSM-5の批判書の類ではなく,確なDSM診断にたどり着けるように役立つコツが随所に書かれている有用な実践書であると感じた。本書が一人でも多くの日本の専門家に,そして専門家以外の方々に届き,臨床に役立つことができたとするならば訳者として望外の喜びである。
 大野裕先生は,研修医の頃からお世話になっている私の恩師であり,尊敬する臨床家である。大野先生とは,以前から分かりやすいDSMの解説書があったらと話をしていたが,このたび金剛出版のご理解を得てDSM-5の発行に合わせて,何とか上梓できたことを喜ばしく思う。本書の翻訳・編集にあたり,金剛出版の中村奈々氏をはじめとする担当の方々に,訳者の遅れがちな翻訳作業を助けていただき,たいへんお世話になった。訳者の1人である柳沢圭子氏にも,翻訳作業を迅速に進めていただいた。翻訳協力には,私がいつもお世話になっている桜ヶ丘記念病院の久江洋企先生,西山豪先生,そして慶應義塾大学認知行動療法研究会の仲間である野上和香先生,阿部晃子先生,小口芳世先生,工藤由佳先生,中尾重嗣先生にご尽力いただいた。そして,慶應義塾大学医学部クリニカルリサーチセンターの佐藤裕史教授,慶應義塾大学医学部精神神経科学教室の三村將教授をはじめとする慶應義塾大学医学部の諸先生の指導を仰ぎながら今日に至っている。これらの方々のお力なくして本書の陽の目をみることはなかった。心から感謝申しあげたい。

2014年1月
中川 敦夫