「自殺の危険:臨床的評価と危機介入」が刊行されてからすでに10年以上の歳月が経った。当時は類書が少なかったこともあり,幸い,本書は広く受け入れられた。
 さて,初版を刊行した1992年ですら,警察庁の統計によると年間自殺者数は22,104人であり,交通事故死者数の11,451人に比べておよそ2 倍であった。何らかの病気で死亡する人の数が交通事故死者数を上回ると,公衆衛生の深刻な問題として取り上げられ,早急な対策を取ることが求められる。しかし,交通事故死の2倍近くもの数の自殺が生じても,社会的な関心があまり払われていたとは言い難かった。
 当時,長期化する不況の入口にあった。不況,社会価値の変動,家族の崩壊,犯罪率の増加や低年齢化と,自殺が急増する社会的要因は数多く認められたのだが,それが現実のものとなるのはそれから数年後のことであった。
 1988年から1997年までの10年間には,年間平均自殺者総数は22,418人であった。ところが,1998年になると,その数が32,863人へと急増してしまった。それ以来,年間自殺者3万人台という事態が続いている(ちなみに新訂増補版執筆時の自殺に関する最新のデータは2004年のものである)。
 2004年には,年間自殺者数は32,325人となった。とくに働き盛りの男性の自殺が増えたことが深刻な社会問題としてとらえられるようになった。さて,交通事故に対してはさまざまな対策が効果をあげて,交通事故死者数は徐々にそして確実に減少してきた。2004 年には7,358人になったため,自殺者数は交通事故死者数の4.4倍にもなってしまった。
 このように,1990 年代後半から自殺が急増し,わが国は世界の中でも自殺高率国の一角を占めるようになった。さらに1990 年代には一連のいわゆる過労自殺裁判が起こされ,法廷の場でも安全配慮義務に関して判断が下された。このような社会的な背景もあって,行政も最近になってようやく重い腰を上げて,いくつかの取り組みを開始した。しかし,自殺予防は長期的な視点から実施すべきもので,けっして短期間の取り組みだけで成果が上がるものではない。
 「自殺の危険」の初版が刊行されてから十数年の間に,わが国の自殺に関する社会的状況がこのように大きく変化し,さまざまな新しい知見や取り組みが開始されてきた。「自殺の危険」の元来の特色を残しつつも,新たな知見や取り組みを付け加えるとなると,ほとんど別の新しい本になってしまう可能性も大きい。
 今回,「新訂増補版 自殺の危険」で新たに取り上げる内容としては次のようなものがある。過労自殺裁判によって企業の安全配慮義務が指摘され,職場におけるメンタルヘルスや自殺予防が重要な課題になってきた。
 また,自殺予防に全力を尽くすことは当然である。しかし,年間3万件を超える自殺をただちにゼロにするというのも非現実的な目標である。どれほど努力しても不幸にして起きてしまう自殺もあるという現実を直視し,遺された人々のケアも重要な課題となってきている。病死や事故死以上に,自殺は強い絆のあった人に深い心の傷を残す。このような人々に対するケアをポストベンション(事後対応)と呼ぶのだが,ポストベンションは次世代の人々のためのプリベンション(予防)としても重要である。
 さらに,国際的に見ても自殺予防は重要な課題とみなされて,世界保健機関(WHO)などが中心になって,国のレベルでの自殺予防対策のガイドラインが発表されてきた。飢餓や単純な感染症で多くの人々が死亡する国ではとても自殺予防にまで社会の関心を向ける余裕がない。しかし,ようやくアジアも社会経済的な安定を果たし,日本だけでなく,自殺予防はこの地域における最優先課題のひとつとなりつつある。
 また,マスメディアの報道の仕方によっては,自殺予防に大きく貢献できる可能性がある一方で,センセーショナルな報道が複数の自殺を引き起こす群発自殺といった現象についても広く知られるようになってきた。自殺報道のガイドラインも最近の自殺学の重要な関心事である。
 自殺の危険を早期に発見して,適切な治療を実施することが自殺予防につながるという,原則的なメッセージは初版と変わらない。しかし,以上述べてきたように,新訂増補版を準備するにあたって,初版に付け加える内容があまりにも多くなった。
 とはいえ,本書も初版と同じように,あくまでも臨床の場で自殺の危険の高い人々の治療や看護にあたっている人々,そして,周囲にそのような人々を抱えてどう対応したらよいのか悩んでいる家族に向けてまとめてあるのであって,哲学的な議論などに深入りするつもりはない。
 今回の新訂増補版でも,著者の臨床経験や同僚諸氏の貴重な経験から得た情報をもとにして症例を呈示したが,プライバシーを守るために個人を同定できるような情報については意図的に変更してある。
 著者が約四半世紀にわたる精神科医としての日常臨床の中で出会った数多くの患者の皆様とその御家族から多くの事柄を教えていただいたことに対して心から感謝を申し上げる。そして,自殺学について直接御指導をいただいたUCLAのエドウィン・シュナイドマン名誉教授に今回もまた感謝を繰り返したい。
 さらに,たいした業績もなかった著者に1992年に最初の本を書く機会を与えてくださった金剛出版の立石正信氏に深謝する。そして,今回も新訂増補版をまとめるように終始激励していただいたこともぜひ記しておきたい。立石氏の尽力と激励がなければ,そもそも本書は存在しなかったことは明らかである。

2005 年12 月
高橋祥友