『犯罪学と精神医学史研究』

影山任佐著
A判/316p/定価(5,800円+税)/2015年1月刊

評者 山中康裕(京都ヘルメス研究所・京都大学名誉教授)

 著者のこれまでの人生を懸けて追究されてきた3つの学問―犯罪学と精神医学史と学生精神保健における,いわば,著者自身による集大成であり,これは大変な労作である。著者は,無論のこと,この道における現在の第一人者であり,古畑種基・吉益脩夫・中田修らの築いた東京医科歯科大学の犯罪学教室の,前三者がいずれも東大出身だったのに比して,医科歯科生え抜きの,同大学難治疾患研究所犯罪精神医学部門助手から始めて,パリ大学犯罪学研究所・サンタンヌ病院への留学を経て,平成6年より東京工業大学の保健管理センター教授となり,そこで定年を迎え,平成14年日本犯罪学会賞を受け,平成24年より日本犯罪学会の理事長を務める,文字通りこの学問のために生まれてきたとも言うべき人であることは,つとに有名である。本書は第Ⅰ部・犯罪学編:犯罪原因論入門,日本犯罪学会百年,統合失調症と犯罪,精神障害者の初犯防止に向けて,「臨床犯罪学」とは,などの6章,第Ⅱ部・精神医学史編:器質・力動論的幻覚論再考,近代精神医学の黎明,フランス精神医学の歴史と現状,GeorgetとGriesinger(書下ろし),E.Kraeperinの疾病論の構造分析などの6章,第Ⅲ部・精神保健編:キャンパス・メンタルヘルスの現代的課題,「志」を実現する力と“Hokkekan”モデルの世界への発信,Quality of Campus(Academic)Lifeなどの4章,第Ⅳ部エッセイ編:私にとって精神医学史とは何か,「上医」の精神医学などの6章の,4部構成で,計22章よりなる,文字通り著者のこれまでの半生の全行程を纏めた集大成である。これらの表題を見ただけでも,著者がいかなる足取りの基に,いかなる学問分野で活躍してきたかが端的に知られるが,とりわけ,やはりフランス留学によるフランス精神医学からの視点と,その時々の著者の足場とした場からの着実な発言と斬新な発言とに,目を奪われる。評者には,まず,本書で書き下ろされた,「GeorgetとGriesinger」の章が刮目であった。つまり,従来,「精神病は脳病である」という精神病の脳病説の起源はGriesinger W(1845)のものとされてきたのが,実はGeorget E(1820)のほうが先であり,しかも,Griesingerは明らかにGeorgetを読んでおりながら,意識的に無視・排除していることを,Griesingerの初版,第2版を深く読み込んだ上で,結論しておられるところだ。これ以後は,「精神病は脳病である」という精神病の脳病説はGeorget E(1820)の「Dela folie」に始まる,と認識を変えねばならない。といっても,私個人は,「精神病は脳病である」という説には反対なのだ。《脳》は,確かに,人間がもともと動物ながらそこから決定的に発展し,超絶した原臓器ではあるが,実は,譬えてみれば,複雑精密この上ないコンピューターであって,そのボタンを押す主体たる《心》は,必ずしも脳に発するとは考えないからである。しかし,ここでは,その論陣を張るのが目的の場ではないのでこれ以上の敷衍は差し控える。
 また,本書でのもう一つの圧巻は,「フランス精神医学の歴史と現状」であり,評者の最も関心を引いたのは,実に不思議なことに,著者とはまったく異なる方向性の確認であった。この45年,評者の考えてきたことは,「精神病者へのまったく無用な蔑みや怖れ,ひいては,彼らへの差別の根源は,《刑事責任無能力》ないしは《禁治産》の思想そのものなのである」。そこに関心を持っている評者からすると,著者が,「法精神医学」や「犯罪学」の成果であると考えておられる《刑事責任無能力》の条項が盛り込まれたのが,なんと,《ナポレオン法典》以来であるとの指摘であった。そして,それ以前には,《ローマ法典》以来,「精神的に正常なもの」には,刑罰を,「狂人」には,治療処分を,となっていたのが,近代化していくにしたがって,上記のような概念が生じてきて,著者は法精神医学や犯罪学が発展してきた,と考えておられるようであるが,評者はまったく逆の考えに至る。
 つまり,評者の意見は,「普通人と病者であるとにかかわらず,犯罪を犯した者は等しく刑罰を科される,が,病者には,治療処分としての対応が必須である」というもので,その理由は,なまじっか,《刑事責任無能力》などという概念を導入したことにより,病者は,「人間ではない」ということを言っているにすぎず,人間でないから,人間が普通有する権利も義務からも逃れられる,と解されてきた。評者は,病者を不当に差別したり軽蔑したり必要以上に怖れさせている元凶たる,刑法や刑事訴訟法においてのこの条項を廃止すること,そして,上に述べたような,「犯罪には,等しく刑罰を科すること,そのうえで病者ならば刑罰とともに,治療処分を科する」という,いわば,《ローマ法典》の思想の現代的復活をこそ,望むものである。間違ってもらって困るのは,評者は,著者の長年の労苦を灰燼に帰させようというのではまったくないことだ。著者の長年の労苦があってこそ,評者の議論が成り立つのであって,氏の努力を高く評価こそすれ,無にするつもりはまったくない。従来の《刑事責任無能力》の概念の導入は,精神病者を守るためといいながら,実は不当に,犯罪にまったく関係のない大部分の病者たちを貶めてきた元凶だった,という認識が必要なのである。こういったことは,たとえば,精神科医で作家でもあり山本周五郎賞の受賞者・帚木蓬生氏の『閉鎖病棟』という作品を読んでいただけたらと思うものである。そこには,病者への心底からの温かい愛が認められるだろう。単なる論理的かつ感傷的な意見なのではなく,法精神医学や犯罪精神医学に必要なのは,病者への真の《愛》だと考えるからである。その延長上での,長年の犯罪学や法精神医学の根本的方向転換こそ,真に病者を守る方法論であることをこそ言いたいのである。