本書は、Ray, W. A. ed., Don D. Jackson : Selected essays at the dawn of an era. Zeig, Tucker & Theisen, Inc, 2005およびRay, W. A. ed., Don D. Jackson : Interactional Theory in the Practice of Therapy, Selected papers vol. II, Zeig, Tucker & Theisen, Inc, 2009の二冊からの抄訳である。編者と出版社の多大なる寛容と協力を得て、このような日本独自の編集版を世に問えることをまずは喜びたい。第一巻二三本、第二巻一八本、計四一本の論文より、ジャクソンの治療を具体的に伝えるものを中心に、筆頭訳者が八本を選択した。そのうちの四本は単著だが、三本はウィークランドとの共著で、残る一本がヤーロムとの共著である。ちなみに彼の論文は全部で一三四本である。
 今更、なぜジャクソンの論文集が翻訳されるのだろうと思う方もおありだろう。私とて、この企画が成立する二〇一三年春までは、このような仕事をするとは露ほども思っていなかった。まずは、その経緯をお伝えしたい。二〇一二年の二月末のことだ。愛知医科大学看護学部精神看護学科の多喜田恵子教授より電話があり、翌年三月に開催される日本集団精神療法学会(大会長―樋掛忠彦氏)での講演を打診された。ナラティヴ・セラピーは家族療法を出自としながらもコミュニティワークをはじめさまざまなグループでの仕事に取り組んでいるので、何か話すことも見つかるだろうと、後先も考えずお引き受けした。「ただ、会場は交通の便が悪くて、名古屋からだと高速バスが一番便利で二時間半かかりますよ」という言葉も、気にはならなかった。ところが、一二月に入り、いよいよ抄録を書く段になってはたと気づいたのは、それが第三〇回大会特別講演だということだった。二九回でも三一回でもない、ある意味、記念すべき年回りであったのだ。すこし困った。
 そこで、「集団と家族、そのユビキタスなもの」という演題で、集団と家族との関連について触れることにした。抄録は以下のように始まる。

 「ユビキタス」とは新手の専門用語ではありません。どこにでもあるものだということを言うのに、多少、聴き手の気を惹こうとしたのです。私は研究などほとんどしたこともなく、日本家族研究・家族療法学会でわずかに活動しているだけの精神科医ですが、かねてから、その家族と集団というどこにでもあるもの、およびそれらが援助活動の特別な対象とされていることに興味を抱いていました。当日は、それに関する臨床実践についてお話ししようと思いますが、ここでは集団療法と家族療法の歴史的接点について書いておきます。  まずは、ジャクソンDon D. Jacksonでしょう。彼は一九二〇年に生まれ、チェスナット・ロッジでサリヴァンから教育分析を受けた後、一九五一年にスタンフォードの大学町であるパロ・アルトで開業した精神科医です。小さなコミュニティですから必然的に家族を面接に加えることになり、一九五四年に(その隣町である)メンロパークの退役軍人病院ではじめて「家族ホメオスターシスの問題」を発表したときには、聴衆の中にベイトソンがいました。そして、ダブルバインド仮説が誕生します。それを期に、あるコミュニケーションパターンとさまざまな疾患との関連が研究されはじめますが、潰瘍性大腸炎の家族のコミュニケーションパターンについてジャクソンと共同研究していたのが、一一歳年下のヤーロムです(Jackson and Yalom, 1966)。ふたりともサリヴァン派でパロ・アルトにいたわけですから、つながりは当然であり、相互に影響を及ぼし合ったのではないでしょうか。ちなみに、ジャクソンの早すぎた死は一九六八年、ヤーロムが集団療法のテキストを刊行するのは一九七〇年です。

 しかし、これを書いた直後、ジャクソンとヤーロムの関係がその程度のものではないことが判明する。本書、最終章に収録されたヤーロムがジャクソンに依頼したコンサルテーション報告である。
 ただし、それで原書を翻訳し始めたわけではない。私の仕事は、はるかに薄い読み物の体裁を取るはずだった。私は年に二、三回、日本家族研究・家族療法学会の会議のために上京する。二〇一三年二月三日にもその会議があったのだが、その前夜、同学会三〇周年記念企画である『家族療法テキストブック』の編集作業があり、都内で宿泊した。そこで、翌日の空いた午前中には、上野まで円空を観に出かけた。仙涯と同様、生まれ故郷の馴染みのある僧侶であり、博物館ならではの照明は、美術写真を眺めるかのごとき幽玄さであった。しかし、さすがに手を合わせることもできない。仏像とは観るのではなく拝むものだと実感した。まだ時間はあったのでどうすべきか迷ったが、不忍池に向かった。風もなく陽の暖かい冬の日で、ベンチにすわると雁のみか鴎も何十羽と舞っており、今更ながらに海の近さを感じた。腰を上げ、無縁坂を上り、神田明神、湯島天神と抜け、会議のあるお茶の水まで歩いた。鷗外の『雁』だ。
 こんな話を名古屋市内の精神科クリニックで働いている元同僚の北村岳彦君にメールすると、すぐにエレファント・カシマシの『歴史』が送られてきた。なんと鷗外のことを歌っているのである。それを?外ファンの新潟の後藤雅博先生に伝えると、寡聞にして知らなかったが、宮本は『渋江抽斎』を高く評価しているようでなかなかだと返事があった。軽い御礼にとAKB48の『ユングやフロイトの場合』が紹介された。?外が『渋江抽斎』を東京日日新聞に連載したのは、大正五年、齢五四である。『なかじきり』の執筆は翌年、そして森林太郎として没するのが大正一一年と、中仕切り後はわずか五年であった。人の一生は短い。これでいこう、と思った。

 その後、いろいろエピソードはあるのだが、これだけは書かせてもらおう。二〇一三年三月四日9:08に石川元先生宛に以下のメールをした。「おはようございます。一つだけ教えてください。週末、サリヴァンのことを調べていましたら、中井久夫氏のエッセイのなかで井村教授の下記のようなエピソードが紹介されていました。(「アメリカにおけるサリヴァン追認」より)『ここから、話は日本に移る。コーエンらが比較文化的研究の可能性を打診するために日本の精神病院を視察したのは一九六二年のことであるが、日大の井村教授を訪問したところ、教授室に招じられて、ジャクソンとサリヴァンの肖像が並んでかかっていたのに驚愕した。尋ねると、この二人は私の神様ですという答えが返ってきた。』このジャクソンは、ジャクソニアン・シージャーのジャクソン(ジョン・ヒューリングス・ジャクソン)ですよね、とお訊きしたかったのです。家族研究者とはいえ、一九六二年にドン・D・ジャクソンの肖像画というのも、ちょっとと思いましたので。もちろん、そのような見方をされていたのだとすれば、私は驚愕ですが」
 9:58には返信を頂く。「残念ながら、ボクも好きなドン・ジャクソンはそれほど日本では高名ではありません(当時も今も)。ジャクソンといえばあのジャクソンか、マイケル・ジャクソンです。井村恒郎元日大教授(田辺哲学の造詣が深かった)は、牧原浩さんの師匠ですが、コミュニケーション研究をやり出す前は、失語症の研究者です。そうなれば当然、イギリスの神経学者ジャクソンJ. H. Jacksonであり、先生が仰るとおり、てんかんでも有名でジャクソニアン・マーチの、あのジャクソンです。全然、背景の違う(井村教授の中では連続性あり)二人の写真が並んでいたので、頭の硬いコーエンさんが「驚愕」されたのでしょう。神経学と精神医学の移行期は面白いですね。先生に刺激され、父にむかし(家族療法学会を立ち上げた頃)、家族療法の話(システム論)をしたところ、そんなもんは柳田謙十郎の「一と多」にもう書いてあることだよ」と一蹴されたのを思い出しました。京都での学生時代(予科)、田辺哲学に心酔した父は、ドイツ語講義でニーチェを教えていた、有名な高坂正顕に個人的にも師事し、田辺哲学(田邊元)に心酔。それでボクが元と名づけられました。京大卒の井村教授はそういう時代の精神科医です。古い話で恐縮です」
 結局、その仕上がるはずの評伝を解題として、ジャクソンの論文を四本ほど翻訳する企画が高島徹也さんによって金剛出版の企画会議に載せられると、あろうことか、会議ではジャクソンの真価が完全に理解され、もっと重厚なしっかりした本にしてもらおうではないかということになった(と聞く)。軽薄短小、専門書の売れない時代に、もっと高い本を作れ、とはなんと稀有な申し出であろう。二つ返事でお受けした。そして、ジャクソン論文集第二巻の抄訳に「家族ホメオスターシスの問題」を補遺とする案を提示した。すると、今度は何と、第一巻からももっと盛り込みたいという返事である。しかも……。この後は、編者のウェンデルと出版社のジェフの多大なる寛容と協力の物語となる。愛知県立城山病院時代の同僚、臨床心理士の山田勝氏の協力を得て、翻訳書の完成となった。第四章から第七章までが彼の担当である。
 この作成秘話に登場したすべての方々に御礼を申し上げたい。最後に、万が一にも未読の方は、ジャクソン臨床の次なる展開を記した姉妹書『解決が問題である』を是非お読み頂きたい。そのために装丁も合わせてもらったのだから。

二〇一四年五月五日 名古屋市にて
小森康永