本訳書は,Freud and His Patients. edited by Mark Kanzer and JulesGlenn. Jason Aronson, New York, 1980.の第W部と第Z部の翻訳である。原著のT,U,V部は「フロイト症例の再検討―ドラとハンスの症例」と題して,X,Y部は「シュレーバーと狼男」と題して,いずれも金剛出版からすでに刊行されている。したがって,今回でようやく原著の全訳が完成したことになる。
原著Freud and His Patients は,後のニューヨーク精神分析協会の母体となった組織Downstate Psychoanalytic Institute の創立25 周年を記念して刊行された。原著は450ページを越す大著であるために,金剛出版の中野久夫氏の発案で,訳書は三冊に分けて発行されることになった。それで安心したわけではないが,今回の全訳の完成までには,予想以上の長年月を要してしまった。多忙な臨床と教育のはざまの仕事であったので,止むを得ない点も若干はあったが,そのような言い訳が許されるはずもない。とにかく,長年にわたって根気強くお待ち頂いた金剛出版の皆さんと,倦きずに協力を続けてくださった共訳者の方々に,深くお詫び申し上げる次第である。
 本訳書は,症例ねずみ男を扱った第T部と,フロイト症例の全体(ドラ,ハンス,シュレーバー,狼男,ねずみ男)を総合的に論じた第U部とから成っている。第U部には,補遺として症例の手際の良い要約も併載されているので,読者はまず第U部を読まれて,症例全体の予備知識と問題点を整理されてから,第T部をお読みになる方が,理解に便かとも思われる。
 ねずみ男は,フロイトが1907年10月から約11カ月間精神分析治療を行った強迫神経症患者である。フロイトはこの治療経験を1907年と1908年のウィーンとザルツブルクの学会で報告し,1909年「強迫神経症の一例に関する考察」と題する論文にまとめて発表した。
 本訳書では,フロイトが転移関係に対して十分な配慮をしていなかったこと,食事に招くなど私的で能動的な関わりを持って,分析的治療関係を逸脱したこと,等々の批判が展開されている。しかし転移の概念が未分化で,自我心理学の成立までなお十余年を残す当時にあって,本論文が強迫神経症患者の精神病理学,および精神分析的理解に寄与するところは甚だ大きかったと言わなければならない。
 すなわち,強迫神経症の精神病理としては,疑惑癖,思考の万能,愛に対する不信,アンビヴァレンス等が指摘され,精神分析的には,反動形成,置き換え,分離,肛門サディズム段階への退行,現実行動から思考への退行,思考現象の性愛化などが明らかにされた。
また,父親との同一化をめぐる葛藤が深刻で,自分の愛を貫くか,それとも父親のように金持ちの娘と結婚すべきか,といった青年期的課題も背景にあったことを伝えていて,興味深いものがある。
本訳書は,初めの第T部を児玉が,第U部を馬場が担当して翻訳し,ついで訳稿を交換して相互に検討を重ねた。途中,仕事の遅れに業をにやされてか,中野久夫氏が第U部第8章の前半部を自ら翻訳して届けてくださった。また第U部第9章と第10章については,岡元彩子氏が初訳を御担当くださった。両氏には,大きな御助力を賜わったことに対して,心からの感謝を捧げます。

2014年12月
馬場謙一