近年の心理臨床分野の発展,拡大にはめざましいものがある。書店には多くの臨床心理学関連の書籍が並び,臨床心理士,心理カウンセリングなどの言葉がメディアに登場することも珍しくない。
 わが国に限っても,臨床心理学の歴史は戦前にまで辿ることができるが,この2〜30年の間に,社会と心理臨床との関係が劇的に変化したことは間違いないだろう。こうした変化の中で,心理臨床家に期待される役割,専門性の質も刻々と変化しつつあるように見える。臨床心理士認定開始から20数年が経過し,心理援助職の国資格化も具体的課題となっているこの時期に,最近の急激な変化をも包含した視野で,心理臨床の原点からの歩みをふり返り,今後を展望することには大いに意味があると考えた。
 折しも2013年,他に先駆けて創設された大正大学カウンセリング研究所が50周年を迎えたのを機に,定例研修会のテーマを「臨床心理学の原点とこれから」とし,本書に登場する3人の先達をお招きして,講演をお願いすることになった。この企画に金剛出版が関心を持って下さり,ご講演を原稿化し,一書を編むことになったのである。その記録が本書第T部に当たる。
 3先生のご講演については,本文を読んで頂くのが一番だが,ご紹介を兼ねて一言記しておきたい。村山正治先生は,臨床の課題が「適応の時代」から「オンリーワン時代」に変化してきていると指摘され,先生が50年間にわたってかかわってこられた福人研(福岡人間関係研究会)の軌跡を辿るなかで,オンリーワンの時代に向けてのコミュニティや人間像の新しいあり方を示してくださった。平木典子先生は,ご自身の専門的キャリアの発展に重ねながら,わが国では職業的なものに限定して理解されがちなキャリアの概念について,「ライフキャリア」という観点から詳しく論じてくださり,人がいくつもの役割を統合して生きていく過程を支援する心理臨床のあり方について提言をいただいた。村瀬嘉代子先生は,転換期にあって,心理臨床の本質に根ざして心理援助職に必要とされる資質について,先生ご自身の体験を踏まえながらお話しくださり,人間性,社会性,専門性が統合されながら,与えられた時と所に応じて役割を果たすことのできる心理士像を示してくださった。
 3先生のお話を伺い,改めて原稿となったものを読ませていただくと,まったく異なる視点,切り口からのお話でありながら,思いがけない共通点に気づくことができる。ここでは私たちが学ぶべきものとして2点のみ触れておきたい。一つ目は,先生方の持つ時代,社会への確かで広い視野である。臨床心理学は,個人の心の極めて微妙な動きや質の違いに焦点を当てる。だからこそ心理臨床家は細やかな感受性や技能を磨く努力をするわけだが,このことはともすると社会や時代への大きな視野の不足を生ずることが少なくないように思う。今転換期にあるのは心理臨床だけではない。私たちは,これまで以上に時代や社会への広い視野を身につけて行く必要があるだろう。少し社会を見回せばわかることだが,教育,福祉,医療,産業,警察,司法などの各領域は,いずれも独自の機構と公的予算枠を持つ社会の基本的(実質的)構成体である。それに対し「心理」や「精神」といった領域は,現代社会において格段に重要性を増してはいるものの,これら諸分野と同じ意味で社会の構成体にはなりえない。心理学は,「教育が教育らしくあるために」「医療が医療本来の目的を果たすために」「産業が真に国民の幸福に繋がるものであるために」これらの諸領域のなかにあって,触媒として,潤滑油として機能するものなのではなかろうか。だとすれば,心理臨床家こそ,社会と時代への広く,繊細でバランスのとれた視点を持っている必要があるに違いない。
 二つ目は,使われた言葉は様々だが,今後の心理臨床における「実体験」の重要性についてである。人が成長してくる環境や社会構造の変化によって,支援を必要とする人々の示す課題も変わってきており,かつての「内界」の言語化と自己洞察を通じた方法のみによっては,改善の難しい事柄が多くなっている。これからの心理臨床においては,グループや実生活での経験をどのように治療に組み込んでいくかが課題になるだろう。これは,援助対象についてだけではなく,われわれ援助者側の資質向上のためにも大いに考えていかなければならないことを示してくださっていると感じたのである。
 第Ⅱ部は,3先生のお話を踏まえ,後日改めて行ったインタビューの記録である。大学院生なども加えたインタビューであり,率直な疑問にも懇切にお答えいただき,より先生方の肉声が伝わるものになったのではないかと思っている。第T部と第U部は,先生毎に続けて読んで頂くのもよいだろう。
 第Ⅲ部には,大正大学臨床心理学科に在籍する教員が,それぞれの領域,関心の中から,現在の課題を示し,今後を展望した論考を掲載した。必ずしもすべての領域をカバーしているわけではないが,それぞれの領域における当面する課題が提示されているものと思う。
 本書の全体を通読することで,心理臨床の過去から現在,そして近い将来の課題とその先の展望を読み取っていただければ幸いである。
 ご講演だけでなくインタビューにまでお付き合い頂いた村山正治先生,平木典子先生,村瀬嘉代子先生には改めて厚く御礼申し上げたい。また,研修会実施の段階から関わってくださり,本書出版に至る道筋を粘り強く導いてくださった金剛出版 弓手正樹さんには本当にお世話になった。金剛出版 立石正信社長にも,本企画に格別のご理解をいただき,研修の際にもお運びいただいた。心より感謝申し上げる。
 本書出版のアイデアを最初に発想してくださったのは,森岡由紀子先生であった。また,青木聡先生が編集の過程での面倒な調整作業を進んで引き受けて下さったことを記し,感謝申し上げる。
 研修実施や講演の原稿化にあたっては,大正大学カウンセリング研究所および学科,専攻のスタッフである西牧陽子,恩田久美子,西谷晋二,保科保子,宮腰辰男,渡部麻美子,岸本沙良,藤田由季の各氏に,ずいぶんと負担をおかけした。その他,一人一人お名前はあげないが,大正大学大学院臨床心理学専攻在学生の皆さんにも,様々な役割を担っていただいた。併せて,御礼申し上げたい。

平成27年7月
伊藤 直文