『ピグル―ある少女の精神分析的治療の記録』

ドナルド・W・ウィニコット著/妙木浩之監訳
B6判/250p/定価(3,200円+税)/2015年10月刊

評者 堀川聡司(目白大学心理カウンセリングセンター)

 本訳書は,D・W・ウィニコット(1896〜1971)が最晩年に行った精神分析的治療の全貌である。ウィニコットは生涯に約6万事例を診たと言われているが,“ピグル”の愛称で呼ばれるこの少女(来談時2歳4カ月)は,そのなかでも最もよく知られた患者の一人だろう。著名な精神分析家による治療過程のすべてを私たちが追いかけられるのは大変貴重な機会であり,フロイトの「ねずみ男」,クラインの「リチャード」,ドルトの「ドミニク」に比肩されるものと言えるかもしれない。
 この症例の最大の特徴は,患者がセッションを望んだときに訪れる「オンディマンド」法で実施されたことである。これは,高頻度で堅固な構造を前提とする精神分析とは対極の設定に見えるが,ウィニコット自身はこの治療を精神分析と呼ぶことを憚らない。実際,わずか16セッションの面接のなかで展開しているものは,紛れもなく精神分析というにふさわしいものである。ピグルは,妹が生まれて以来,さまざまな不安に襲われ,制止症状や同一性の混乱をきたしていたが,治療者との関係において,原光景にまつわる不安状況を繰り広げ,転移関係をワークし,最終的には新しい対象関係に開かれるまでに至っている(終了時5歳2カ月)。
 今回刊行された待望の新訳では,そうしたウィニコットのスリリングな面接室でのやりとりが,原文のニュアンスを生かしたまま日本語に訳されている。また,子どもの臨床にありがちな独特の言い回しについては,原語も併記するという配慮が施されている。なお,既刊の旧訳で不十分とされていた箇所(当時の本邦におけるウィニコット受容状況を考えれば幾分致し方ないだろう)も全面的に訂正されている。
 ただ,だからといって私たち読者が,事例の流れを容易に理解でき,ウィニコットの臨床実践が手に取るようにわかるわけではない。そもそもウィニコットの文体は,日常的な言葉遣いで一見わかりやすいようでいて,その真意を掴むのが極めて困難なものばかりである。とりわけ『ピグル』においては,逐語的な面接記録と両親からの手紙,そしてウィニコットによる短いコメントしか掲載されていない。そのため,読者には相当な理解力,集中力,想像力が要求されることになる。この手の書物の読み方としては,治療場面を想像して追体験することを試みる読み方,ウィニコット理論と照らし合わせながら精読する読み方,あるいは同僚たちと議論を交わしながら輪読する読み方など,さまざまな味わい方があるだろう。いずれにせよ,咀嚼すればするほど,読者なりの解釈と着想が創造されてゆくのではないだろうか。
 そのような意味においても,今回の新訳は,ウィニコットの醍醐味を存分に引き出すことに成功している翻訳書と言えるだろう。さらに,巻頭にはいち早く本症例の研究(『錯覚と脱錯覚』(岩崎学術出版社)など)に取り組んだ北山修氏による「まえがきとして」が,巻末には監訳者の妙木浩之氏による丁寧な「解説」が掲載されており,大変読み応えのあるものとなっている。