「イメージって胡散臭いよね」
 そんな声が雑踏の中から聞こえてきました。今から20年ほど前の日本心理臨床学会でのことです。イメージ関連のシンポジウムが終わり,会場から大勢の聴衆が連なって出ていく,そんな中で耳に飛び込んできた言葉でした。当時,私は壺イメージ法を使って臨床的に有効な事例をいくつか経験していましたので,大変残念な気持ちになりました。そして,「イメージって,そんなに特殊なものではないし,異常な現象でもない。誰でも体験しているものだから,この誤解を解いて,もっとイメージ法のことを知ってもらいたい。」と考えるようになりました。この本を上梓した一番の動機は,そこにあります。
 臨床場面でイメージ法の有効性に手応えを感じ,その後も臨床の重要なツールとして活用してきました。そうしながら,自分自身のためにも,人生の節目節目で切羽詰まった状況で自分のためにイメージを使うようになりました。イメージに教えられ,救われたという経験を幾度かしました。それらの経験が,この本を書きたいと思った二つ目の動機です。以下にその辺りのことを綴ってみようと思います。少し長くなりますが,しばらくお付き合いください。
 一つ目は,15年近く前のことになりますが,私が九州大学に赴任して半年が経とうとしていた頃のことです。教員として,また研究者としてまったく自信がないまま,喘ぐように毎日を過ごしていました。周りの同僚が立派に見え,実際,著名な研究者たちも多く,それに比べて自分はなんと価値のないちっぽけな存在かという思いが心の中で何度も繰り返されていました。学生たちの自分に対する評価にも怯えていました。前期の授業をやっとの思いで終え,夏の休暇に入ったある日,研究室の椅子に座り,ひととき息をつける感覚を感じながら,ふと呟いてみました。「今,自分はどんな状態でいるんだろう。」と。椅子に深く座り,深呼吸をして目を閉じました。しばらくすると,あるシーンが浮かんできました。大きな大きな大海原,まるで太平洋のような広い海で,私が沈んだり浮かんだりしながら,手や腕だけが海面から伸び,今にも溺れそうに時々頭部が見え隠れする,そんなイメージでした。実際に私が金槌ということもあり,そのシーンを見ながら,沈みかける息苦しさをリアルに体に感じました。このイメージは,当時の自分の状態を教えるのに十分でした。このようなとき,自分の中から生まれ出たイメージをどう受け止めるかが大変重要であると私は考えています。自らの深い底から浮かび上がってきたイメージを,自分に声援を送る力にするのか,さらに追い打ちをかけて窮地に追い込む破壊力にするかの分かれ目が,ここにあると思います。イメージそのものが示唆に富む内容を含み,またイメージ体験そのものが人を導く力を持っているということは確かなのですが,それと同時に,その受け止め方,つまりイメージ体験をどのように受け止めるか,その態度のありよう,つまり自分自身のイメージとどう付き合うか,イメージとの関係性の在り方が,大げさに言うとその後の人生の展開に大きく影響を与えるだろうと考えています。「こんなに溺れそうになっている自分って,なんて情けないんだろう」と受け止めてしまえば,もっと落胆し,自己批判の淵にさらに深く沈み込むでしょう。このとき私は,「あー,今自分はこんなに危ない状態になっているんだ。だからこれ以上,自分を追い詰めてはいけない。不満足でも,それに耐え,自分を許すことを今はしなければ。」と受け止めました。それからは,自分の中の焦りの感覚をもう少し俯瞰した視点を持って捉え直すことができるようになりました。自分で自分を追い詰めるということが減ったように思います。
 また,その翌年のことでした。思いもかけず2003年に日本心理臨床学会から奨励賞を授与されました。自信のなかった私には,そのまま進んでいいよと背中を力強く押していただく貴重な経験となりました。受賞の翌年に,記念講演をすることになっていましたが,その前夜のことでした。ホテルの部屋で,独り緊張感に耐えながら翌日の講演の練習をしていた時のことです。不安に耐えられなくなり,その時の切羽詰まった緊張感をイメージでどうにかできないかと必死の思いで想いを巡らしていました。「何かその不安な気持ちが入っていると思える壺のような入れ物はないだろうか」と自問してみました。体育座りになり顔を伏せて目を閉じて,イメージが現れるのを待ちました。しばらくして浮かんで来たのは,一辺が50センチほどの木の箱でした。少し古びていて,自分が今感じているしんどさの程度に比べて意外に小さいなあと感じたことを憶えています。蓋はきっちりと閉じられた状態でした。不安感が和らぐように,どこか遠くに置いておこうと考えました。しかし,なぜかその箱を動かすことはできませんでした。心の中でちょっと動かしてみるのですが,すぐに目の前の位置に戻ってくるのです。おかしいなあ,なぜだろうと自問しながら,その箱をイメージの中で触ってみることをしました。箱に触れる動きを,実際に手を動かす動作を伴ってやってみました。すると不思議なことに,だんだんとこの箱に対して愛おしいという気持ちが込み上げてきました。自分でも驚いていると,この箱の中に入っているものは,自分にとってとても大事なものなのだという感じがしてきました。自分を容赦なく追い詰める苦悩の元凶ではあるのですが,それは今まで自分が頑張ってきた部分でもあり,それがあるからこそ今の自分があるのだということに思い至りました。そのような考えが頭を巡る中で,イメージの中で木箱を大事に抱え撫で続けていると,不思議なことに箱は透明感のある大きな青白磁の壺に変わっていきました。両腕で円を描いたくらいの,ちょうど胸の中で抱きかかえられるくらいの大きさです。撫でるとつるつると気持ちのいい感触があり,心の焦りと体の火照りの両方を優しく鎮めてくれる感覚がありました。翌日の講演は,その壺を抱いて頬擦りするイメージを心に抱えながら行いました。知人からはとても落ち着いているように見えたと言ってもらえました。実際に心地よい程度の緊張感がありながら,一方で胸の辺りに満ち足りた感覚を保ったまま話を終えることができました。その後も,この壺は“安心の壺”として,私を支え続けてくれています。節目節目でこの壺がどうなっているか確かめることをするのですが,この壺自体,その時々で姿を変え成長し,変化しています。自分の背丈より大きな壺になっていて,びっくりしたこともあります。鉄の壺に変化している時期もありました。
 最後にもう一つの経験を書こうと思います。連れ合いが5年前の,5月にしては蒸し暑いある日,急性心不全であっという間に亡くなってしました。その事実を実感を持って感じることができるようになったのは,つい最近です。当時,ほとんど何も感じることができないまま,目の前の仕事だけを心が宙に浮いた状態で,とりあえず形だけはこなしていたように思います。その頃は,仕事のない休日は,朝からふっとお酒を口にするようになっていました。寂しくて泣くわけでもなく,ほとんど感情のないまま,酔うことで何かを紛らわしていたのかもしれません。主人が亡くなって数カ月が経った頃,台所の戸棚を開けて,びっくりしました。日本酒の入った一升瓶が空になっていたのです。確か少し前に開けたばかりの一升瓶です。これには自分でも驚きました。「あー,アルコール依存ってこんなにしていればすぐになれるんだな」と感じたのを覚えています。そこで,「今自分はどういう状態なんだろう」と目を瞑ってイメージが感じられるのを待ちました。すると,何か左後ろの離れたところに,沼のようなものが感じられました。周りは泥地で,そこに不用意に近づくと足から引っ張り込まれて沈んでしまいそうな感覚が想像できました。「あー,あそこには近づいてはいけないな。足を取られてどうしようもなくなる。不用意に近づかないようにしなければ」とからだの感覚で感じました。連れ合いの死を巡る思いと自分との関係が,背後の沼と自分との関係としてよくわかりました。それ以降は,左後ろにある沼の情景を時々手繰り寄せて,自分の状態を知る手掛かりにするようになりました。そうしているうちに,沼のまわりにうっすらと笹竹の囲いのようなものが感じられるようになり,沼自体は遠目では見えなくなりました。3年が経つ頃には,竹の若葉がそよそよと風に揺らいでいるのを感じました。沼が竹の間から見えますが,以前の沼とはまた違った雰囲気の,沼というより池か小さな湖が広がっているようにも見えました。今は,若竹ではなく,もう少し成長したしっかりとした緑色の竹林のように感じられています。
 このように振り返ってみますと,危機的な状況の中で,イメージがいかに私を深いところで支えてくれたかということや,自分の変化と成長に伴ってイメージも変化,変容してきたということ,また,イメージの在りようから普段意識できない自分の状態について知ることができたということに思い至ります。
 人は,知的に了解できる合理的な世界だけに生きているのではありません。その下にはからだの感覚を基盤に持つ豊かな深く広いイメージの世界があり,それらが人を支え,導くことを行い,一方でまた足を引っ張り,時には破壊の淵まで追い込むのだと思います。イメージを,人が生きるための味方にするにはどうしたらいいかということを考えて書いた本です。読んでいただいた心理臨床家の方に,なにか一つでも役に立つことがあれば幸いです。