本書で用いた2 つのケースの出典は,John E. Exner(1991)The Rorschach :A Comprehensive System. Volume 2. Second Edition. John Wiley & Sons です。ケース1とケース2はともに「不安と身体症状を呈するケース理解」と題されたものです。
 不安と身体症状が主訴となる似通ったこれらのケースは,診断を付ければ全般性不安障害となるものですが,Exnerは好んでこの2つを採り上げて解釈してロールシャッハやアセスメントの必要性をコントラストで描き解説されていました。そして必ず最後には,「診断が付いたからといって,治療やトリートメントができるわけではない」「たとえ同じ診断が付いたとしても,その背景にあるパーソナリティが異なれば当然治療やトリートメントも異なるのだから,その人に合った適切な介入や援助をするためにアセスメントをして,トリートメント・プランを立てなさい」と語るのでした。
 ケース2 は,担当の専門医がボーダーラインではないかと疑った,とありますが,このケースがロールシャッハを受けた当時は1980年代で,ちょうどボーダーラインが今の発達障害のようにブームでしたので,時代的背景も味わっていただけるかと思います。「感情の扱いに不自然さがある」のはその通りですが,今日ならボーダーラインと言わないケースです。
 すでに20年近く,講座でこの2つのケースを繰り返し解釈してきたので,彼女らの反応を暗記してしまうほどになってしまいましたが,不思議なことに何度解釈しても飽きません。それどころか,講座で解釈するたびに新たな発見があるのです。特にケース2の激しい身体症状がどのような心理学的なメカニズムから生まれてくるのかだんだんとわかってくると,さまざまな年齢(小学生から高齢者まで)で身体化の症状を呈するケースのロールシャッハを理解する際のベースとなりました。このケース2は地味ですし,わかったつもりになりがちな,面白味のないロールシャッハに見えますが,応用範囲が広いと思います。身体化することそのものが心理状況や精神状態と表裏一体であることを学べるからです。いわゆる薬物療法が主ではなく,カウンセリングやセラピーなどが役に立つケースですので,なおのこと学び甲斐があるでしょう。
 ケース1からの学びは何と言っても,反射反応のあるクライアントの特徴を学べることです。受動依存傾向の難しさと自尊心の高さとの組み合わせがいかに生きにくさを醸し出し,ラムダの低さがどれほど事態を複雑にするかは,ケース2と鮮やかなコントラストを形成しています。
 最後に,包括システムのatheoreticalな特徴について触れたいと思います。包括システムはひとつの理論に則っていません。その意味では,包括システムでコードしたら,どのような理論で解釈を構築してもよいという可能性を含んでいるということです。これが精神分析や対象関係論などさまざまな立場の研究者も巻き込んで,世界中で発展してきた理由だと思います。本書では,私が咀嚼し学び取った解釈を,ほぼExner博士が行なった形で示しましたが,これでもすべて語りつくせたわけではありません。紙上で私がお示しできたのだけが正しい解釈と思わないでください。たたき台として提示させていただきましたが,包括システムのatheoreticalな特徴を生かして,皆様の臨床の現場や実務に合った形でこの技術をさらに発展させて生かしていただければいいのではないかと思います。その意味で包括システムはとてもおおらかですし,発展性があるのだと思います。「人は千差万別,いつも同じ解釈ルーティンを取らないほうが個性を生き生きと描き出せる」という発想がクラスター解釈を導きました。この発想を是非生かしてクラスター解釈をものにしていただければと思います。
 常に,Hermann Rorschachの原点に戻り,ロールシャッハが「知覚の実験である」ことから目をそらすことなく,ロールシャッハが「個人理解のための道具であり方法論である」と信じてこの包括システムを発展させてきたExner博士の身近で学び,繰り返し教わったことの一端を,ここに残せる機会を得られましたことを心から感謝いたします。とりわけ,これらのケースを使うことをご快諾くださいましたRorschach Research Foundation(通称Rorschach Workshops)のMrs. Doris Exnerに感謝いたします。ケースを使用するだけでなく,細胞分裂して私のなかに生きているExner博士からの学びをそのままここで語るご許可をいただきましたことも,ありがたく思います。どのケースも自由に使って,存分に包括システムについて語るように励ましてくださるExner夫人からは,日本に対する大きな期待を感じます。さまざまなワークショップや講義で学んだ内容が私のなかで醸造され,このたび本書に結実しました。1990年代からExner Japan Associates(EJA)で,ともに学び,講座を運営してきた仲間にも感謝します。これまで国内外のさまざまなワークショプや講座で学ばせていただいて,知恵付けしていただいたさまざまな内容を私がEJAの初級講座で語り,それをテープ起こしして本書にまとめました。テープ起こしの素材はとても手に負えない長いものでしたが,金剛出版の藤井裕二様の編集能力のおかげでここまで形にすることができました。一人では形にならないものを生み出す喜びと驚きを演出してくださいました。根気よく応援してくださいましてありがとうございました。
 『ロールシャッハ・テスト講義I』が出てから,長い間を取って本書を刊行するに至りました。辛抱強くお待ちいただきました皆様に,お詫びと感謝を申し上げます。私のなかで,Exner博士を失った喪の作業が進み,本当に自分がしなければならないことに向かう力となるには,必要な間だったようです。
 包括システムのロールシャッハはatheoreticalである,なぜならば「個人は理論に当てはまらない」からだというExnerの考えは根本的に重要です。特定の理論をもたないがゆえに,常に仮説を構築して論理的に解釈を進めていく,この包括システムの手法が皆様の手に届き役に立ちますよう,心から願って筆を擱きます。

2016年初夏
中村紀子