『仏教精神分析―古澤平作先生を語る』

永尾 雄二郎,クリストファー・ハーディング,生田 孝著
四六判/190p/定価(3,000円+税)/2016年9月刊

評者 北西憲二(森田療法研究所/北西クリニック)

 本書は,精神分析の父といわれる古澤平作の初期の弟子であった永尾雄二郎(1925 −)の話を生田とハーディングが2012 年に聞き取ったものをまとめたものである。これは最初「鼎談 仏教精神分析」と題して精神療法誌(41巻3号〜5号)に掲載された。
 いうまでもなく精神療法と宗教の関係はデリケートなものである。永尾からみた古澤平作(1897−1968)はどうであったのか。
 当時医学生であった永尾自身がノイローゼとなり,1946年に古澤に分析治療を受けたのが最初の出会いであったという。永尾は5年間の古澤との交流のなかで「真に精神分析の治療効果をあげるためには,親鸞の心をもっていなければいけない」ということが古澤の根本理念だということを知る。ならば直接親鸞の心を学ぼうと思い,古澤から離れ,浄土真宗の第一人者といわれる金子大榮に師事することになる。
 永尾が古澤によって救われたのは,何よりもその率直な人柄と家族の一員,息子のように迎えてくれたことにある。それは森田の治療を受けた人たちが家族のように森田の家庭に迎えられ,そして治療者になっていったことを彷彿させる。ここには治療契約などという概念とはまったく異なる精神療法的営みが存在した。
 古澤は1年弱ウイーンに留学し,フロイトに会い,精神分析の勉強をして帰国。東京の田園調布に「精神分析学診療所」を設立して開業。終生にわたり臨床実践と教育分析によって多くの弟子の育成に努めた。日本における精神分析の父といいうる存在である。古澤が「阿闍世コンプレックス」の概念を作り,フロイトに提出したが,フロイトは読んでいなかったようだし,そのことについての言及もフロイトの日記に述べられていない,という。
 ハーディングが永尾に問うたように,精神分析とキリスト教は信じていることが違うので合わせることができない。古澤の場合は,仏教と精神分析を合わせることに問題はないのだろうか。
 ここで二つの疑問が出てくる。一つは,永尾の治療でもその一端はうかがえるが「とろかし療法」といわれている古澤の精神分析とはどのようなものだったのか。そこには厳しい禁欲原則はなく,家族のように永尾を受け入れている。個人の自立という西欧的自我論とは別個なものだろう。それはノーセルフ(no self)というあり方でもある。これらはどのように融合,統合されていったのだろうか。古澤の治療は精神分析的に破綻していたともいえ,それに対峙した土居健郎は袂を分かつことになった。
 第二に,日本の精神分析にとって,仏教,中でも浄土真宗の持つ意味はどのようなものであろうか。
小此木啓吾によって,古澤の「阿闍世コンプレックス」概念のみが継承されたが,これらの問題について,精神分析学会は注意深く排除してきたようだ。
 日本における精神療法とは,そこでの自己のあり方とは,そして宗教との関係とは,などをもう一度見直す時期に来ているようだ。それが日本の精神療法の成熟につながるのではないか。鼎談,解題,解説のそれぞれが興味深く,本書は日本における精神療法のあり方についてさまざまな点から刺激をしてくれる。