「訳者まえがき――ビオンとの出会いによって,「生まれいづるもの」――」より

 本書『ビオンの臨床セミナー』は,先に出版された『ビオンとの対話──そして,最後の四つの論文』(祖父江典人訳,金剛出版,1998年)の姉妹編にあたります。両訳書とも原本は1994年にロンドンのカーナック・ブックスから出版された メClinical Seminars and Other Worksモ が出典です。ビオンが晩年にイギリスからカリフォルニアに居を移した時期での業績です。
 それ以前のビオンは,科学や数学や物理学などの用語や思考を駆使し,精神分析という営みの本質に認識論的に迫ろうとしていました。しかし,その高度の抽象性ゆえに,ビオンの著作は難解だと言われました。それに対して,以後のカリフォルニア時代には,セミナーやレクチュアの参加者相手に,討論や対話という形式で,実に自由な思索をビオンはめぐらせていきました。この書はまさにその時期でのものです。この晩年に至ってビオンは,それまでの科学的,哲学的認識を究極まで押し進めようとする姿勢から,それを突き抜けて,もう一度人のこころのなぞそのものに純粋に向き合おうと志したかのようです。その意味で,松木邦裕先生が前著の序にあたる箇所で,「本書ほどに精神分析を感じさせてくれる,精神分析を考えさせてくれる書物はほとんど見当らないでしょう」と論評されたように,ビオンの語りは感性や直観にあふれ,実に生き生きとしています。私たちをビオンの精神分析臨床の只中に誘ってくれるかのようです。
 このようにビオンの生の肉声を聞くような醍醐味が,本書の意義のひとつとなるのでしょうが,それはまたビオンのもうひとつの難解さにもつながることなのかもしれません。といいますのは,前書出版以来,幾人もの方から感想や書評をいただいたのですが,比較的若手の臨床家からは「難しい」や「ビオンのことばがどの水準で語られているのかわからない」といったような当惑した声が寄せられました。経験の豊かな臨床家が,思いのこもった声で「良い本ですね」と言ってくださったのとは,ある意味で対照的でした。ビオンの肉声を噛み砕き,消化するには,臨床で患者と対峙するときと同じような臨床感覚や直観力,理解力が必要となるのかもしれません。その意味で,以下に書き記すことが比較的若い読者にとっての理解の一助となれば幸いです。もっとも,それがビオンの嫌う「先入観」にならぬことを願いながらですが。
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 ビオンの語りをどう聞くかは,極端に言えば無限の可能性があるように思われます。といいますのは,ビオンは「語る」と同時に,「語っていない」し,あるいは「語られていないことを語っている」ようでもあるからです。ビオンはその直観に満ちた語りによって私たちの感性を散々奮い起こしはしますが,はっきりとした「視覚」(視点)をまったく与えていません。したがって,私たちは感性を揺さぶられこそすれ,私たちの前に「普遍的な空白」が提示されているような,不安なこころの状態に留めおかれます。つまり私たちは,刺激は受けるものの,それをしっかりとは特定できない「目の見えない」状態になったかのごとくです。そうしたこころの状態に置かれれば,ビオンのことばはいかようにも聞こえてくるでしょう。そして,このいかようにも聞こえることこそ,ビオンが狙いとしていることのひとつなのかもしれません。なぜなら,「いかようにも聞こえる」ということは,いろいろなこころの水準で聞くこと,ひいては私たちのこころの中のさまざまな自己が呼び覚まされ,それらの自己で「聞く」ことになるからです。そのためにビオンは,なぞや含みや矛盾や余白を残した口調で語りかけています。
 こうして私たちは本書を読み進むにつれ,ビオンと「出会い」,ビオンとの「関わり」の中に否応なく入りこんでいきます。そして,この出会いによる「関わりそれ自体」こそ,ビオンのことばの奥でいつも鳴り響いている通床底音でしょう。すなわち「関わること」は,関わらずにはいられないという欲望であり,しかも自分が吹き飛ばされてしまうほどの恐怖でもあり,ゆえに関わらないことへの退避ともなります。ビオンは「情緒の撹乱」として,関わりのもつ性質について言い及んでいます。私たちは好むと好まざるに関わらず,常に出会いによる「情緒の撹乱」の只中にいるのです。そしてこの出会いは,必ずしも自己と他者との出会いとは限りません。自分の中の自己との出会い,あるいは対象との出会い,さらには「出会わない」という出会いも含まれていましょう。そして,私たちはその「出会い」,あるいは「出会わなさ」をとてもまともには正視できないと,ビオンは言っています。なぜならそれは,「真っ昼間の太陽光線」を見るがごとくで,私たちの「視覚」には耐えられないからです。しかし,それを見て,たとえ盲目になろうとも,それでも私たちは生き残らねばならないと,ビオンは説いています。なぜなら,そこにこそ私たちのこころの栄養となる「真実」が含まれているからです。
 そして私たちにとっては,本書自体が,私たちのなかの眠っていた自己を呼び覚まされる「出会い」となるのでしょう。この呼び覚まされた自己はとても恐くて追いやってしまいたいものでしょうか。とても痛ましくて正視できないものでしょうか。どんな自己なのでしょうか。一例をあげてみましょう。ビオンは,患者があたかも何も困っていないようにふるまうなら,「どうしてあなたはここにくるのですか」という問いを発すると言っています。この発言はひどく直接的に聞こえますが,私たちは,ビオンのこのことばから何を感じるのでしょうか。ビオンを杓子定規の冷たいアナリストと感じるのでしょうか。あるいは,「おっしゃるように私には来る必要がありません」と意気揚揚とした気持ちになるのでしょうか。はたまた,来ずにはいられない哀れな自分を感じるのでしょうか。私たちはどの自己を呼び覚まされるのでしょうか。
 このようにビオンは,私たちのなかにさまざまな自己(あるいは対象)を想定して,私たちに語りかけてきているようです。それは個人分析にも似た,自己の発見につながることでもありましょう。すなわち,私たちのこころの中のスプリットされた自己への気づきです。「私たちには何のトラブルもないかのようにふるまったり見せかけたりする,この安易な治癒は私たちには許されません」(サンパウロ「8」),なのです。
 そしてまた,ビオンは,「出会い」によって「新たな誕生」がもたらされるとも説いています。なぜなら「出会い」とは交わることであり,それは身体の交わりとしてのセックスにもなれば,分析場面では言語的性交にもなるからです。そして,セックスから赤ん坊が誕生するように,「分析的性交」からは「分析的赤ん坊」が生まれてくると,ビオンは述べています。そして,その生まれ出てくる「赤ちゃん」の相貌を,ビオンはさまざまに形容しています。「潜在的な母」「羨望に満ちた父」「痛ましい子ども」。あるいは,解放されるのを望んでいる「性的人物」。内部に死んだ父や母を含んだ「死んだミイラ」。母親の幽霊としての「胃の痛み」。私たちが死んでしまおうとまるで頓着しない「存在への衝迫」。
 こうして私たちは,またしても出会いたくないものに,出会ってしまいます。そして,その「赤ちゃんがどんなであれ,赤ちゃんに耐え忍ばねばなりません」(ブラジリア「19」)。「イギリス製の麻酔」を使って,「痛みのない分析」を受けようとしたり,あるいはある種の「広告代理業者」になって,自分を偽装してはいけないと,ビオンは語っています。
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 さて,このようにみてくると,ビオンは分析空間の中にいったい何人もの人がいると言うのでしょうか。アナリスト,アナライザンド,それを見ているもう一人。さらには呼び覚まされたり,生まれ出てくる自己や対象。父や母。はたまた「死んだミイラ」や「抗いがたい獣性」。際限がありません。よって,そこに「情緒の撹乱」が生じないはずがないのです。そして,アナリストとはこのような情緒の撹乱した坩堝の中で明晰に思考できねばならない,とビオンは語りかけています。
 また,ビオンは私たちが関わりを恐れるがゆえに,奇妙なコミュニケーションのもち方をすることにも言及しています。それが一方通行にしかならない「テレ(遠い)−フォン」などの装置を使った,「非−コミュニケーション」というコミュニケーションシステムです。それはつまり,自分自身の本当のことについて,語らずして知らしめたいという意味のようです。つまり,真実を知ってしまったら,アナリストや夫でさえ何をするかもしれないし,嫉妬や羨望や憎しみなどのカタストロフィックな事態がもたらされるかもしれません。したがって,私たちは危険なくコミュニケートしたいがために,「テレ−フォン」や「テレ−ヴィジョン」などの奇妙な伝達装置を使うことになります。そうして,他者との間に限らず,自己どうしの間に距離を作りますが,それでもなお,救いを求めている自己は存在し,他者との間のみならず自己との「結婚」を切望します。なぜなら,「人類の構成単位はカップル」であり,「ひとつを作るのには,二人の人間がいるのです」とビオンは説いています。
 このようにビオンのことばは,たしかに「それまでに話しかけられたことのない水準で」,私たちに投げかけられています。それに私たちは翻弄されるのですが,ただよくよく見ていくと,このようなビオンのことばを,精神分析の洗練された理論や用語に置き換えることも可能なのかもしれません。オグデンやブリトン,ボラスなどの現代の対象関係論者なら,エディプス的第三者,間主観的な第三の主体というような概念化を行なうでしょうし,そもそも対象関係論的思考の範囲内で,ビオンのことばの読解もできそうです。すなわち,ビオンの語る自己と対象との関係を,スプリッティング,投影同一化,否認などの用語や迫害対象,抑うつ的自己,結合両親像などの概念を使用することにより,論じ直すこともできるかもしれません。しかし,ビオンはあえて原始的なことばを使っています。ことばの「原石」で私たちに語りかけています。その精錬されていない「余白」は,私たちに委ねられているのです。したがって,私たちには「私たち自身になる」余地が残されています。そこに本書の希少価値があるのでしょう。
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 最後に,私たちはこの書を通してビオンと対話することにより,どんな「赤ん坊」を産むのでしょうか。ビオンへの飽くなき賞賛でしょうか。ビオンの否定でしょうか。あるいは旺盛な知識欲でしょうか。はたまた憂うつなもの想いでしょうか。私たちにどのような「赤ちゃん」が生まれるにしろ,私たちはその「生まれ出てきたもの」に責任をもち,その起源を静かに問うていかねばなりません。それが私たちのこころの源流への道程ともなりましょう。
 読者の皆様の情緒が撹乱され,「新たな経験」となることを切に願っています。

   2000年3月

 祖父江典人