訳者あとがき

 本書はHadley Cantril著『The Invasion from Mars: A Study in the Psychology of Panic』(Transaction Publishers, 2008)の全訳である。
 本書の背景となった事件が一九三八年一〇月三〇日のハロウィーンの晩に起きた。H・G・ウェルズの空想科学小説『宇宙戦争』を基にしたラジオ劇がCBSのマーキュリー劇場で放送された。ドラマの語り手は名優オーソン・ウェルズであり、火星人がニュージャージー州に攻めてきて、軍隊ではまったく歯が立たず、多くの犠牲者が出ているというストーリーだった。描写があまりにもありありとしていて、現実味を帯びていたため、全米でパニックが起きた。訳者が生まれるはるか前の出来事ではあるが、訳者ですら聞いたことのある広範囲にわたるパニックであった。この社会現象を、若き社会心理学者ハドリー・キャントリルが調査し、一九四〇年に本書の初版が出版され、コミュニケーション学や社会心理学の古典となった。
 その息子のアルバート・H・キャントリルが冒頭に新たに短い解説を加えて、二〇〇八年に再出版したのが本書である。『火星からの侵略』がけっして現代においてもその意義を失っていないというアルバート・H・キャントリルの熱い思いから、本書がふたたびこの世に姿を現したのだ。本書の全体については、アルバート・H・キャントリルが冒頭に新たな短い解説として、きわめて簡潔にまとめているので、訳者が本書の内容を繰り返し述べるのは控えておくことにしよう。
 この番組が放送されたのはラジオというメディアが広く社会で活用され始めた頃であり、ラジオが及ぼす影響について高い関心が払われた。当時はナチスドイツや日本が台頭し第二次世界大戦の怖れが増すとともに、大恐慌の影響が長引くといった深刻な社会不安に圧倒されている時代であった。初版の出版から八〇年近くが経った現在では、テレビやインターネットを通じて、世界中の至る所で起きた事件も瞬時にして情報が手に入る世の中になっている。一九三八年当時に比べると、情報の量も速さも格段に増してきているものの、マスメディアの情報量が増したことが、パニックの予防に大きな役割を果たしているかというとそれも疑問が残る。
 二〇一六年にはヨーロッパへの難民の流入がマスメディアを通じて大々的に報道された。シリアの内戦により多くの難民がヨーロッパに押し寄せ、難民が自国に入ることに対して反対する愛国主義的な活動も活発化した。このような報道が連日のようにテレビやインターネットを通じて伝えられていた。訳者はたまたま二〇一七年一月にドイツを訪れる機会があったが、マスメディアを通じて想像していたヨーロッパの現状とは対照的に、訪問したドイツの小都市がきわめて平穏であったことに驚いたものだ。マスメディアが極端な部分を報道し、全体像を伝えていないというのも、これもまた現代の事実であり、本書が指摘しているように適切な「判断基準」が手に入らない状況では、パニックが生じる下地は今でも同様に認められるように感じた。
 なお、原書には統計処理について首をかしげるような記載が所々に見受けられるが(例 図表と本文の数字の不一致)が原書の雰囲気を損なわないように、あえて記載通りに訳しておいた。一九三八年当時と現代を対比させて本書を読んでみるのが一興かと思われる。訳者は現在、筑波大学で災害・地域精神医学研究部門に所属し、大規模災害と心の健康について教育・研究を進めている。大規模災害では流言飛語をどのようにコントロールするかがつねに大きな課題となる。このような立場からは、本書の翻訳を通じて、社会心理学の古典から多くを学ぶことができたと付け加えておきたい。

 最後になったが、本書の翻訳を提案してくださった金剛出版代表取締役の立石正信氏に深謝する。氏は訳者にとって最初の著書である『自殺の危険――臨床的評価と危機介入』(一九九二年)を世に送り出してくださり、それ以来、数多くの激励をいただいてきた。氏の提案がなければ、そもそも本書が世に出ることはなかっただろう。

二〇一七年六月
高橋祥友