序 論

 この本は精神(分析)療法について書かれた13編の論文を集めたものである。最初のものは,1965年,最後のものは1996年,この間ほぼ30年の歳月が経過している。このうち4編は原文が英語で書かれており,今回あらためて日本語にした。今,上に,精神(分析)療法と分析を括弧でくくったが,それは私が精神分析の立場に立つのは事実としても,ここに載せた論文が精神分析のことばかりを論じているのではないからである。なお固有の精神分析と精神分析的精神療法を区別する議論はすでに1950年代から米国で盛んに行われ,日本でも最近その論が行われるが,臨床的にそれがあまり意味があるように私に思われないことも,ここで分析を括弧に入れたことと関係がある。私見だがフロイドFreud, S.もこの私の考えに賛成するだろう。もっともこのようにのべたからといって,精神分析療法を他と区別する特徴がないと言いたいのではない。そのための訓練はもちろん必要である。とくに個人的指導(supervision)はほとんど必要不可欠と言わねばならぬだろう。それにみずからも精神分析を受けることができれば,それに越したことはあるまい。
 なお『「甘え」理論と精神分析療法』と『甘え』理論を題に付したことについても一言しておこう。精神分析療法についての本が数多くある中で,私なりの特色を出そうとすれば,「甘え」の観点しかないのでこのような題にしたが,ここに集めた論文がすべて「甘え」を真正面から取り上げているわけではない。(略)
 まずいちばん重要な点は,一見甘えが表層に出ているように見える日本人者の場合も,むしろその深層の無意識の葛藤にこそ「甘え」の心理が絡んでいるという主張である。これは「甘え」が元来言葉を介しない心理であることと深い関係がある。そして「甘え」概念が普遍的なものとすれば,以上のべたことは外国人一般にも通用しなければならない。私は上記の本で「甘え」の観点から無意識的葛藤を三つの類型にわけたが,それは次のごとくである。第一は,甘えたいが甘えることは自分の弱さをさらけだすことになるので危険だと感ずるもの,第二は,甘えるには甘えるがそれでいて物足りなく感ずるもの,第三は,精神病の状態に相当し被害的な態度を持するもの,したがって事実上は甘えを知らないもの,以上のごとくである。このうち第一,第二の類型は,フロイドのいう去勢不安・男根羨望を「甘え」の観点から換骨奪胎したものであるが,この方が臨床事実に即応するだろう。ところで面白いのは第三の類型であって,上述の本を書いた時には勉強不足で知らなかったが,これはまさにメラニー・クラインMelanie Kleinのいう妄想分裂態勢(paranoid-schizoid position)に相当する。そしてこれを平易な日本語で言えば,上述の本でもちょっとふれたように,「ひねくれる」ことであり「ひがむ」ことであると言ってよい。なおKleinが重んじた抑うつ態勢(depressive position)は日本語では「すまない」と言える精神状態のことになろう。実際,甘えをかつて経験したことのない人間は「すまない」ということもできないという事実を踏まえると,Kleinが抑うつ態度を重んじたことが一層納得がいくように思われるのである。
 一体なぜ私は外国から輸入した学術用語を平易な日本語に直さないと気がすまないのか。それはまさにわれわれが日本人であり,われわれの診る患者も日本人だからである。われわれはもちろん外国の文献にも平生親しむことができればそれに越したことはないこの際原語で読めることがいちばんよく,それができなければよほどこなれた翻訳で読むことをすすめたい。というのは外国語で書いてあるものを直訳しただけでは到底学んだことにはならないからである。例えば,コフートKohut, H.が精神分析の伝統に身をおきながら画期的な自己心理学(self psychology)を作り出したことにいかに感嘆したとしても,そして彼のいうself objectを自己対象と訳して新しがってみても,もし自己対象転移が「甘え」に相当するということを思いつかなければ,結局何も学んだことにはならないからである。
(略)