まえがき

 本書は,奈良女子大学の森岡正芳教授に御指導戴いた学位論文「子どもと家族への統合的心理療法―その創案と臨床的展開―」(平成14年10月,博士(文学))の中核を成す章をもとに,学位論文準備中に執筆した論文や学位取得後の仕事を纏め,大幅に加筆したものである。
いささか私事にわたり恐縮であるが,心理臨床に携わる者として,自分のあり方を省察することを抜きにした臨床,研究,教育の営為はあり得ないことなので,ここに若干これまでの経緯に触れることをお許し戴きたい。
 論文執筆を考えたとき,博士学位審査資格のある教授なのに今さらどうして必要ない,それにそんな多忙なのに,と忠告して下さる方もあった。だが,私には内心の声が聞こえていた。初心に還る気持ちで研究しよう,と。

 1959年,家裁の調査官になった時も,目前の課題には誠意を尽くすとしても,人前にあることは気後れする,家庭人として何れひっそり暮らす,と内心考えていた。留学の機会が与えられたことはまさに晴天の霹靂で,躊躇した。
 バークレイの生活は一月が半年位に思われるほどに刺激的で濃密な知的刺激に満ちていた。理論と実践は表裏一体であること,理論を現実と乖離させて用いないこと,生きた誰とでも共有できる言葉で,しかも内容は必要な水準を保った表現を行うように。すぐれた臨床実践は到達点では学派の違いを超えるのではないか。だがそれは基本になる理論や技法を的確に会得することを前提としている……。このとき抱いた課題は今日にまで一貫している。

 ある時,当時最高裁家庭局長であられた内藤頼博判事(最高裁家庭局家庭裁判所調査官研修所初代所長として,家庭裁判所調査官制度の創設と発展に尽くされ,東京家庭裁判所所長,広島高等裁判所長官,名古屋高等裁判所長官を歴任され,御退官後は学習院院長を務められた)が,アメリカ各地の司法・矯正の実情を視察される途上,バークレイにお立ち寄りになった。バッカビル医療刑務所視察へいらっしゃるとき,一団の末席に加えて頂いていたが,内藤判事は私に気づかれ,今夜,バークレイのファカリティ・クラブに泊まる,明日の朝食をともして話がしたい,と仰有られたのである。本来は雲の上の方なのに。
 リスが戯れ遊ぶ林に面したダイニングルームで,「伝えたいことは三つある。人間として良い生き方をするように,良い家庭を持つように。勉強すること。学んだことを裁判所での仕事や社会で役立てることができるように」と内藤判事は仰有り,さらに「帰国したら,貴女のお父さんに貴女が元気で学んでいた,とお便りを出そう,ご住所を」と付け加えて下さったのである。学ぶということは当然であるが,よい生き方とは……。

 結婚を決意し,帰国後,家族の事情で,家庭生活に専心することも考えている,とスーパーヴァイザーのE・ファイファー女史に相談すると一瞬眉を曇らされた。女史は論文や著作は余り書かれていなかったが,バークレイキャンパスの数多のスーパーヴァイザーの中で,最も実力ある人として皆の尊敬を集めていた方で,繊細緻密さ,厳しさ,類い希なエンパシイ能力を絶妙なバランスで併せ持つ方であった。先生は相手が適切な人物か否か会ってみる,と! 今は亡き村瀬に会われ,「誠実で独創性を持っている人物,幸せになるように。しかし,何時かできれば自分に英文で事例研究を書いて送ってくれることを待っている」と仰有られた。

 頑健とは言えない主人と義母との日々を考える生活と仕事の両立は難しかった。中途半端はいけない,家庭裁判所調査官研修所の研究員を退職したい,と願い出ると,研修終了後の暗黙の義務年限は終えていたが,それでも周囲からは「もっと努力を」という声がしきりで自責にかられた。退職のご挨拶に内藤頼博東京家庭裁判所所長のもとに伺った。おしかりを覚悟していた。「僕は妙に頑張るのはよくないと思っている。よい生き方を考えてご家庭を大切に。そして,もし何時か余裕が出来たときに,裁判所のために,いや世の中のために働いてほしい」と静かに微笑して仰有った。このお言葉に応えられる日が,そして応えられる自分であり得ることが果たして可能か,と思いつつ,これはその後の日常生活の基底を支え,かつ自分への問いであり続けた。

 家庭に入って後もいろいろと違った種類の仕事や勉強の機会に恵まれた。新しい仕事をお受けするかどうかはまず義母の,次いで主人の判断を仰いでから考える,という順序を踏んだ。出会うクライエントも働く場所も,さまざまに変化して広がり,それぞれの場とクライエントの必要性に応じて,理論や技法を適用することの大切さや創意工夫が必要であることをその都度確認していった。

 統合失調症を主とする精神病圏の人々にかかわるには,素材として自分を提供するような心持ちで接すること,できれば人生の葛藤を余り深く知らず素直に対象を受けとることの多かった時代の自分に半身は立ち返るような気持ちで緊張を緩めること。そして一方では着手できることから少しでも生きやすくなる工夫を考えること,患者さんや家族の生活の質の改善を考えること。
 自閉症児を中心とする発達障害児の療育では,養育と教育の要素をさりげなく織り込んだセラピィを,しかもいかにも訓練というより,親も子もプレイフルにどこか楽しみ,歓びを感じられるような活動を工夫すること,セッションで意図していることがプレイルーム以外の6日間と23時間の営みに連動するように。療育は当事者と双方向的に内容を確認しあって進めること。障害そのものは消えずとも,生活の質をよくする工夫,たとえば治療者的家庭教師の導入によって下校後の時間をより有効に過ごしたり,養育者が自身の用事を足したり,わずかたりとも休息できる計らいを。
 いわゆる境界例とされる青年期の人々には,居場所感覚を贈り,育ち直りのために個別的にして多面的なアプローチを工夫していくことが有効であること。こういうアプローチの一環として,この世に居場所感覚を見出せない,長期不登校や病院退院後まもない思春期・青年期の人々のための通所施設にかかわることも始めた。運転免許試験に合格するためというような現実的目標に連ねて意欲が自ずと湧くような学習,身体の協応動作力を高め,バランス感覚を持つための楽しめる運動の時間,そのためのスポーツのルールの変更工夫,暴走を禁止する一方のアプローチから,レーシングチームを作っての本物のマナーと命の大切さの実感を体得すること,知的情緒的障害が重い青年には個別化した作業を提供して,どこかに何か参加の機会があり,自分の場,という感覚が持てるように,青年たちが自分の感情や思考を適切に表現し,それに呼応する対象に出会うことによって自信を取り戻し,自己制御の力を少しずつ伸ばしていけるように,言葉や観念が実体に裏打ちされていくのを助けるような援助法を個別的に考えた。

 1983年から,再び専任教員として現在の勤め先に復帰したが,個人的心理的援助活動のあり方ばかりでなく,人為的,操作的な印象のない自然な治療的環境,治療的風土をカウンセリング研究所全体としていかにして醸成し,発展させていくか,を課題としてきた。クライエントが受付で「ただいまあ」と思わず言葉を発するというようなこともしばしばあった。一方,適切な距離感,できること,引き受けられないこと,引き受けてはならないことについても常にクリアに意識するようにし,関係機関との連携にも当初から意を用いてきた。

 さまざまな外部の機関との繋がりの中で,1999年より重複聴覚障害者の施設から心理的援助を依頼されるに至った(この入所者は本来の聴覚障害に加えて,精神障害,聴覚以外の身体障害,社会経済的困難,家族や近隣社会との繋がりの薄さ,虐待,DVなどさまざまな被害経験を併せ持っている)。入所者への心理的援助,家族面接,職員へのコンサルテーション,オンブズマン・サーヴィス等を依頼されているが,先行の文献もほとんど無い領域でコミュニケーションの方法を模索しつつ実践している。心理的援助の根幹,そのあり方の可能性について改めて考えさせられることが多い。その一端は本書の「こころの糧と子ども時代」に述べた。

 1981年,離婚に伴う親権,監護権の帰趨に関するわが国で初めてという民事鑑定を命ぜられたが,これはその後,このような事件への面接調査,鑑定書作成の一つのモデルになったと聞く。それまでも,刑事事件の鑑定のお手伝いを部分的にしたことはあったが,対立して係争中の両当事者から,中庸のスタンスを維持しつつ,徒に侵襲的になることなくいかにして核心に触れた事実を収集できうるのか,それらの資料をどのように総合しアセスメントするのか,子どもの意志能力を発達の状態,素質やその子どものパーソナリティと関連させながらどう考えていくのが妥当なのか。刑事事件の鑑定書は前例も多くあるが,このような鑑定書はどのように作成するのが適切なのか。事実をして語らしめる,事実を大切にするにしても,鑑定時には,未成年であった事件当事者の子どもたちが,仮に成人した折に,鑑定書を読んだ場合,両親の離婚はやむを得ないとしても,自分の出生に意味を見出せるような文を書けたら……,と模索の中でいろいろ考えたことである。この後も時折,渉外事件や離婚事件にかかわる意見書の作成を求められるが,エビデンスと公平さをもって,当事者や関係者に対して説得力をもつ内容を構成する,というのは今日に至る課題である。

 また,このころから進行性の疾患に罹病している子どもやその家族,あるいは自分の出自を巡る事実を知りたいと願う寄る辺ない子どもたち,自分が一生抱える障害について知りたいと願い,かつ不安を強く抱く人々に接する機会が増え,生きるということの意味,伝えるという営みのあり方についても自ずと掘り下げて考えるようになった。臨床の現実は多く語られるような成長モデルのみでは対処できない領域が少なくない。このような臨床にあっては,文字通り相手に身を添わせて,個別に即して考え行動することであるが,心理臨床に携わるには,サイコダイナミックスや技法論に加えて,臨床人間学を学ぶ大切さを思うこと切である。

 今日では,レスパイトケア,ショートステイ,デイサービス,デイケア,精神里親制度,等々,家族との生活や施設の段差を埋めるべくシステムが整ってきてはいる。さらに,病院,施設内での援助プログラムもきめ細かに工夫が展開されるようになっている。そして,社会がケアする時代に入ったのだ,ともいわれる。事実,養育,介護などをすべて個人の責任に帰することには負担が重すぎ無理がある。一方,臨床の現実から考えると,人のこころが生まれ育つ,そして傷が癒されるには,基本は画一化されたのではない,きめ細やかなその状況に即応したかかわりがすぐれて求められていることを看取する。人と人との確かな出会いと繋がりの形成を元に,制度の活用も効果を高めうるのであろう。制度の内容にきめ細やかさを盛り込むこと,そしてなお,制度の狭間を埋め,繋ぐものとしての心理的援助が期待されている。心理的援助とは,クライエントの内面の歴史を一貫性あるものとして繋ぎ,クライエントと家族,その他の有意味な人やこととの関係を繋ぎ,さらに必要な機関とクライエントを繋いで,クライエントが自分を受けいれ,居場所感覚を持てるようになる手助けをクライエントの状態,時と場に即応しながら行っていくということであろう。こう考えると心理的援助に固定化されたマニュアルを考えることは難しく,かつこれで,一応の水準に達したというゴールはない。絶えざる精進が求められている。

 本書の「高齢者と心理臨床と死」にあるように義母と永遠の別れを告げて数年後,村瀬は治療法がない,という今では難治性疾患に指定されている呼吸器疾患に罹病した。病と折り合いをつけながら,今という時を生かして過ごす,という日々が始まった。ところで,主人が担当の「臨床心理学概論」は教授クラスの人が担当することが慣例であり,急に代行の非常勤講師を探すことは難しい,看病の傍ら無理であろうが私にその役をと学習院大学からのご依頼であった。ゼミも担当したが急な代役で学生さんたちにはご迷惑をかけ申し訳ないことであった。
 朝,目覚めると直ぐ病院へ車を走らせ,病室で朝食を準備して共に済ませ,日中の仕事を済ませると夜病室へ,深夜に帰宅,という日々が続いた。病室の窓から入り陽の残光がビルのシルエットと雲間に消える時,二人で今日一日あり得たことを無言のうちに共に感謝した。静まった夜の病院を出てから,また会議や溜まった仕事が待っていた。私は夢中で過ごしていた。
 ある朝,学習院大学のキャンパスで,内藤頼博学習院院長にばったりお目にかかった。30年ぶりである。先生はステッキをついていらっしゃったがお元気で,あちらから先に気づいて下さりお声をかけて下さった。「書類で見た。ご主人は大変だ,お大事に。ご苦労だが,講義をよろしく頼むよ」と昔と変わらぬ気品ある微笑をされつつ「村瀬さんも年をとったね」と付け加えられた。ふと,「よい生き方をするように」とあの朝食時に伺ったお言葉が想い出された……。

 1997年暮れから,村瀬は残り最後の時を自宅で過ごすことになった。たどる下降線の状態を嘆くより,今できることを体力と折り合いをつけて工夫した。学生指導にはファックスや携帯を使って……,体力の衰えにつれて筆記具は万年筆から水性ボールペン,2Bの鉛筆へと。「在ることを感謝し,足を知る」ことを身を持って伝えられた終わりの5カ月であったが,当初から文献を渉猟して予後を知っていた村瀬は,「自分のために時間が使える今は幸せとも言える」と静かに言った。

 子どもも結婚し,自分のために使える時間が増えた。さて,その都度,その時できること,義務は果たそうと考えてはきたが,これまでの私の仕事は身辺のさまざまな雑事に追われる中で,折り合いをつけながらのものであった。クリスマスが近づくとファイファー先生の方からグリーティング・カードを例年下さることが多く恐縮していたが,ある年,私のカードは返送されてきた。国際学会で多少評価を受けた発表もしたが,先生との約束を果たすには間に合わなかった。

 ここに記した方々の他に,いかに多くの先人や同僚,若い友人,クライエントの人々との出会いによって多くを教えられ,学んできたことか,私は宿題の一端を果たすような気持ちで学位論文を執筆した。主査の森岡正芳先生は宗教学を学ばれて後,大学院で臨床心理学を専攻された方で,院生でいらっしゃった頃から広い視野とその柔軟な思考法に敬意を覚えていた方である。そうだ,森岡先生に主査をお願いし,おそらく他の審査の先生方は臨床心理学以外の方々になるであろう大学に提出しよう,近接領域からの検討を受けることに意味がある,と考えたのである。
 審査委員,森岡正芳教授(臨床心理学),麻生武教授(発達心理学),杉峰英憲教授(比較教育学),佐久間春夫教授(スポーツ心理学)の方々による口頭試問の時間は,純粋に対象そのものについて考え話す,という久しぶりに経験する濃密な充足感ある時間であった。気が付けば,予定の時間を大幅に過ぎ,委員の方々が「豊かな実り多い時間だった……」と口々に仰有って下さった。学位授与式の席上,丹羽雅子学長(アパレル科学御専攻)は,「ここに書かれてあるような臨床心理学こそ,世の中が本当に必要として求めているものです。多くの人に知ってほしい,広く人が読めるような形で出版されたら,と思います」と仰有った。
  ……(後略)

2003年 7月 夏椿を眺めながら 村瀬 嘉代子