あとがき

祖母は祖母の母からの眉を受けついでいる
その眉のかげの眼はなかば閉じられているが
畳みの縁にかくれた小さなゴミを見逃さない

祖母は毎朝欠かさず一杯の水を飲む
ゆっくりゆっくり飲み干して
誰に向かってかありがとうと呟く

祖母は時折近くの小山にひとりで登る
てっぺんに座りこみ草を撫でる
まるで名もない雑草が自分の子でもあるかのように

祖母がびっくりするような大声で笑い
テレビの中の贔屓の落語家に語りかける
あんたも皺が増えたねえと

祖母が昔ながらの手順で丁寧にだしをとる
覚束ない手つきで蓮根を切る
何もかも目分量だよと孫たちに言う

祖母が腰をのばして陽だまりに立っている
その姿は永遠だ
この騒がしい星の上で

祖母 『シャガールと木の葉』 谷川俊太郎 2005

 高齢者が増えたらしい。それは,寿命が延びたこと,乳幼児が死ななくなったこと,若い命が大量に奪われる戦争が今この国に無いことと深く関連している。喜ばしいことだ。だが,高齢者は,しばしば「高齢者問題」として,問題リストの筆頭に掲げられる。この地球上には,人口が増えすぎることを憂え,一人っ子政策をとる国もあれば,少子化が進行して高齢者が増えることを問題として,「産む」ことを推奨する国もある。人の命の数や分布は,国の力でコントロールすべき対象なのだろうか? 生きたいのに生きられないたくさんの命もある。高齢者が増えたことは,憂うべき問題なのだろうか?
「90歳以降は幸せ。今生きているのは,おまけだと思っている。自由。名前を忘れたってね,別に困ることはなにもない。人の名前に関心はない」
 と悠然と語る高齢者の言葉や存在は,不安や迷い多き若者を励ます力になることはないのだろうか?
 高齢者をめぐる諸問題のなかでも,とりわけ認知症がクローズアップされている。元気な高齢者も,「認知症にだけはなりたくない」と口をそろえて語る。
 高齢者は,認知症であろうとなかろうと,来る日も来る日も,昨日も今日も明日も,たくさんの時をこつこつと積みかさねてきた存在である。背後にはたった一つの歴史があり,語るべき経験がある。生きたいのに生きられない命が無数に存在するアフリカでは,「高齢者が一人亡くなると,図書館が一つ消える」といわれる。長老は尊ばれ,その意見には耳を傾けられる。
 年をとれば記憶力は衰える。認知症では,その低下が病的に著しいものとなる。記憶力が衰えれば不便であり,不安になり,不都合も生じる。だが「過去を忘れなければ恥ずかしくて到底生きていられない」のも一面の真実である。
 過去の出来事が,記憶から消えても,実態がなくなるわけではない。実際には,本人が「忘れた」「思い出せない」と思っても,出来事が脳裏から完全に消し去られていないことが多い。認知症の人で,記憶の再生はできなくても,再認ならできるということもある。手がかりがあればふと思い出す遠い昔の出来事もある。思い出すのがいいのか悪いのか,必要なのか,不必要なのかはわからない。
 良き聴き手が高齢者の過去を尊重する営みである回想法は,押しつけがましいものであってはならない。しかし,高齢者が自ら語る過去の体験や言葉を,うち捨てずに聴きたいものである。伝えたいのに思い出せないことに対しては,あきらめないで代わりに言葉をみつけたり,五感を総動員し,想像力をはたらかせて,空白が埋められるようあいつとめたい。他方,空白を埋めることばかりにとらわれず,あるがままの空白の美をそのまんま味わいたいとも願う。
(……後略)

2007年8月8日  黒川由紀子