あとがき
 この本は,『臨床心理学』の「臨床ゼミ」に連載されたリレー講義(第5巻2号2005年3月〜第7巻2号2007年3月)全13回を基本にして編集したものである。すでに3年前になるが,ナラティヴをテーマとした連続講義の企画案をまとめ,編集会議でナラティヴアプローチの多様な形を紹介したい旨をお伝えしたところ,その席で河合隼雄先生がよしやろうと,即座にバックアップしてくださったことを覚えている。成書をこのような形で先生に読んでいただくことも,もはやかなわない。とても残念である。あらためてご冥福を祈りたい。

 さて臨床心理学の実践領域の広がり,研究方法の多様性に連動するようにして,ナラティヴアプローチの現在は多様である。まずはナラティヴアプローチの多様性を紹介いただくため,これまた心理臨床の各界を代表する執筆者の方々には,かなり自由に,それぞれの立場から健筆をふるっていただいた。ナラティヴアプローチの現在が生のまま,熱く語られている。もちろんナラティヴ,物語,語りという言葉はインパクトのある特徴的な言葉であり,多様でありながらも全体としては共通する方向性をもつことがうかがわれる。
 臨床心理学におけるナラティヴの多様性というよりも,ここで生の多様性といいかえるべきであろう。ナラティヴという視点が積極的な意味をもつのは,生の多様性と具体性に可能なかぎり接近したいという実践研究上の要請からくる。生きているということは多様かつ矛盾だらけである。人はけっこうバラバラの現実を抱えている。にもかかわらずそれをまとまった一つの現実にして生きている。このようにけっこうきわどいバランスを取りつつ生きていけるのは,ナラティヴを作り出す心のはたらきによる。
 するとセラピーにおいてナラティヴとはどういうもので,そこからどのように生の具体性に接近できるのか,それによるセラピーの効果はどの程度なのかと問われることになるだろうが,この本で明らかになってきたように,ナラティヴアプローチは新しい技法を提供するものではない。かといって技法を軽視しているのではなく,このアプローチを取るとき,実践者はどういう問いと応答を行うことがその場に変化を生み,問題の解消へと向かう文脈を作るのかを自覚し,行為し,またふりかえる。その場で会話を交わしつつ,参加者の助けを借りつつ,選ばれていく方法がナラティヴアプローチにおける技法である。すなわち技法も最初から前提とされるのではなく,構成されるのである。
 したがってナラティヴはその現場に合わせ,そのつど定義することになるが,主要なはたらきの一つは,時間的あるいは空間的に異なる領域の事象をつなぎ,それによって新たな現実を作っていくところにあろう。そのために歴史−文化的な視力を磨くことが必要である。
 日本語の物語は「もの」と「語り」を含む言葉である。「もの」について「こと」と対比するとおもしろい。「人生はむなしいもの」とはいうけれど,「人生はむなしいこと」とはいわない。「何というばかげたことをしでかしたものだ」とはいうが,「何というばかげたものをしでかしたことだ」とはいわない。このように「もの」と「こと」の使い分けはかなり厳密だ。このことに注目した荒木博之(『やまとことばの人類学』1980)によると,「もの」は恒常不変の原理,さだめ,規範に関連する。「こと」は一回的で可変的,非原理的な事象を示す。
 物語は出来事としては一回性の「こと」と「こと」をつなぎ,まとまったはなし「もの‐かたり」を作るものである。「もの」は「こと」と違って,変わらぬ現象や自然の摂理や法則を指す。「もの」と「こと」の区別はかなり堅固なものである。
 「こと」と「こと」の移行に注目すると,日本人は,何かのことを始めるときに「よいしょ」とか「せえの」とかけ声をあげ,間の口をはさむ。これは文化的にもかなり固有のものらしい。「こと」を始めるときの区切り,そして「こと」を進め,次の「こと」へと橋わたすときにこのようなかけ声が必要なのである。これによって時間的な継起をおこし,時を刻む。これは文化の知恵である。私たちの人生で必ず訪れるいくつかの危機は「こと」と「こと」の大きな移行の時に生じるものと理解してみよう。「ものがたり」は「こと」の移行をスムーズに行うために必要なのだろう。それによって,「こと」と「こと」をつなぎ,「もの」としてまとめておくことができる。そして「もの」を語り他者に共有してもらい確認してもらう。
 日本文化では「こと」と「こと」の関係はさほど論理的に緊密でなくともよい。緩やかな連関の中で全体として何かが醸し出されればよい。このような風土がある。私たちは江戸時代中期のころ連句,連歌の座を市民があれほどに共有した歴史をもつ。
 さてセラピーでは,「こと」は客観的な経緯としての出来事のみを意味するのではない。意味のある「こと」として主体に確かめられるならば,心的現実を作る空想,夢,イメージもれっきとした「こと」として扱われる。そのときに時が動き出す。たとえば,夢も見ただけではそれは一回性の「こと」として消えていくだろう。夢が「こと」として思いおこされ,新たに他者に向かって語られることを通じて,「もの」になる。夢には時間がないといったのはフロイトであるが,無時間的な「こと」を他者と共有し,体験として意味づけられていく作業によって,夢は時間性を獲得し個人にとって意味深い経験となる。
 したがって,夢を含め面接において語られた「こと」は,あったことかなかったことかの判断をいったんおいて聞くという態度がはじめにある。ナラティヴアプローチはこの態度を出発点とする。ナラティヴは時間的な展開が描けるという特徴も利点である。それによって聞き手はそのプロセスに参加し,いっしょに動いていく。いわば同行感覚を呼び覚まし強める。
もう一つ,各章を通して共通に感じられるのは,どの執筆者も物語になる手前のところが大切ととらえていて,そこを述べるのに苦慮されているという点である。前‐ナラティヴで何が生じているのだろう。
 ナラティヴがつなぐはたらきをもつということはいいかえると,ナラティヴは自己と他者,内面と外面,過去と現在,現在と未来などの境界線上に構成されるということである。そしてナラティヴは行為,身体の動きと切り離せない。その境界は一方で他者に向かってゆさぶり,突き破る必要がある。個人の体験そのものは伝達不可能であるが,他者に向かって語るという行為に意味がある。そして語りの主体としての感覚が実感されるときにセラピーの中で変化が生じるようだ。
他者としてのセラピストは,そのとき語り直しの作業が基本になろう。クライエントの語りを述べなおし,ともに見直そうとするだろう。あるいはその言葉を別の文脈に置き換えてみることも試みるだろう。
 一方,心の内面でも人は言葉を使っている。その言葉は他者に向かって使う言葉とは違って,自分向けの言葉だから自分にのみわかればよい。まさに私的言語である。相反し,矛盾する多くの意味が凝縮していて,イメージ優位である。統語法も異なる。
 しかし内面の考えや思いを人に伝えるときには,共有されうる言葉にしていく必要がある。この変換作業はけっこう難儀である。いいあぐねていることを聞き手とともに言葉を探ってみる。そのとき語りが生まれる。ナラティヴは心の内面と外面の境界に浮上してくる。
 ナラティヴアプローチの諸相をとらえていく間に,言葉の力,言葉のはたらきのおもしろさにあらためて思いいたるのである。
……(後略)

2007年11月 執筆者を代表して 森岡正芳