あとがき
 本書『ナラティヴと医療』は,内科学,精神医学,文化人類学をそれぞれ背景にもつ3名によって編集された。各章の執筆者は,医療現場での実践・研究を続けている人たちであるが,その職種,専門領域は実に多彩である。17名の執筆者がこのテーマのもと縦横に論じているため,単一性や収斂性というより多元性,拡散性が見てとれるかもしれない。そのうえ,著者らは各自さまざまな切り口から医療をめぐって長らく抱えてきた語りを展開しているので,この本の読者はその渾然とした多声性に驚くことだろう。
 しかし,その根底に共有されているのは,「苦しむものを援助したいと願う者」の眼差しである。それは,ブルナー(Bruner 2002)が述べているように,患う者がいかに特別な環境や文化の者であっても,そしてそれにかかわる側がどのような職種であっても,相手を「患者」や「ケース」とみるのではなく「苦境にある人間」とみることが重要だという点である。そのような姿勢自体が物語的なのだとブルナーは述べている。
 個人が抱える患いや苦境は,孤島の如く他とは無縁に完結しているものではない。その苦悩は,いつもその当人を取り巻く社会的・文化的文脈に絡み合っている。それは架橋することが可能であり,さらにいえば人間の持つ苦境という「普遍的」な地平を明らかにする。

 ややドラマチックな例だが,中井久夫は天理教の教祖中山ミキを宗教的「創造の病い」という観点から論じた。彼女が自分の忍苦が限界を超えた時,突然「われは天理王命なるぞ」と叫んで仁王立ちしたと伝えられる。その点を中井は,「これは発病であろうか。ある意味ではそうかもしれないが,同時に解消(解決)ではないか」と述べている(中井2001, p.46)。それは一人完結しない叫びであったため,他者からの応答とともに新たな社会的文脈へと越境可能となった。
 ブルナーは,アリストテレスが『詩学』においてギリシャ悲劇の要素として挙げた「逆転(peripeteia)」という現象に注目した。語りとは,そのような人間の普遍的な層に向かい,患う者を,(治癒するしないにかかわらず)より可能性に開かれた者へと導くのである。
 語りはまた,単純で素朴な人間的視点とみることもできよう。ブルナーの言うように,人間はもとより物語的に思考するものなのである。それはことばと一体になって成長・発達する人間の本性と結びついている。
 今日,医療やケアのマニュアル化が進み,さらには医療・看護・心理・福祉各専門職の資格化によって,医療とその関連領域は細分化され,いわば完全に「舗装」されつつある。何かコトが起れば標準的マニュアルに当たり,エビデンスを探り,その領域の専門家に尋ねる。各専門職はそうした細かい領域内に棲み分け,その領域に収斂する言説を扱う。患う側も信頼できそうな専門家を探し,ネットで関連のデータを検索し,不安な時はさらにセカンド・オピニオンを得ようとする。どちらを見ても専門性が奉られる。
 「ナラティヴ」や「語り」を表題にした医療書が読まれる理由もそのあたりにあるだろうか。領域が専門化し整地がすすめば相互の交流は難しくなる。医療において人間を横断的に,トータルなものとしてとらえる視点は失われる。エビデンスやガイドラインやマニュアルに拘束された医療や医学とは,じつは局地的なものである。人が病んで患うことの周辺には,中山ミキにみるように,生にまつわる広大な空間や野原があり,さらにはそれらを草原や山々という可能性が取り巻いている。
 何を病気とし,誰を治療者とするかなど,治療に関する世界観を中井(2001)は「治療文化」と呼び,その最小の単位を「一人治療文化」とした。それは,一つの治療文化がその人一身に具現されている場合を指す。例えば,狩猟者や漁夫,登山家や航海者など。彼らにはこれがないと生死にかかわる――自分で自分を何とかしなければならないからだ。カリブの海でひとり巨大な鮫と格闘したサンチャゴ老人(『老人と海』)を思い浮かべたらよい。
 しかし「人生」というストーリーを生きる個々人にもそのような「一身具現性」が備わっているとみていいのではないか。なぜなら,誰の航路でもないその人自身の海を往くのも,また病む者一人ひとりだからである。ならば,医療者側として,中井が言うように,こうも表現できる,「治療とは,そのひとだけの一品料理をつくろうとすることである」と(同上 p.228)。

 1970年代から80年代にかけて,人間科学の諸領域で「ナラティヴ」が強調されるようになった時,それは,それまで圧倒的に優勢であった「大きな物語」の終焉を意味するものであった(Lyotard 1979)。それは歴史の進歩や正義や真理を説こうとしたマルクス主義であり,近代科学であり,精神分析学であっただろう。保健医療の領域で言えばWHOによる天然痘の撲滅宣言から,1978年「アルマ・アタ宣言」にみる「プライマリー・ヘルスケア」へのシフトなどにも緩やかに結びついたものであった。その宣言「2000年までにすべての人々に健康を」の期限をすでに超えた21世紀初頭の今日,医療においてナラティヴを強調することは,おのずと先端化・細分化する現代医療に対する応答・批判という色彩を帯びる。
 とはいえ,医学・医療をとりまく現在の状況が一朝一夕で変容したり瓦解したりするようには思えない。そのような中で「苦境」にある者,患う者はもちろん,医療者や援助職やその他もろもろの人にこの本が読まれ,ひとつの歩みが始まり,境界を横断する手助けになることがあれば,本書の目的は果たされたことになろう。
 苦境にある者とは患者に限らない――舗装されて土の匂いを忘れ,細分化されて視界を狭め,閉塞感と事務手続き的隘路に陥った医療者たちもまた,苦境にある者と云えそうだ。そういう場では,言葉も本来の流れから隔てられ,狭い袋小路へと追いやられる。
 雪が解けて何になる? 「水になる」というのはもちろん正しいが,それのみが正解とされる言語的世界は生きづらい。「雪が解けて春になる」と応える世界があっていいのではないか。語りの機能に関して,セルトー(de Certeau 1980)は,物語るとは,境界を設定するとともに,それによって生じた外部へと架橋する作業だ,と述べている。それは広い世界に通じる橋であると同時に,その橋は一方通行ではない――医療者も患者もそこを行き来する。語りの実践とは,双方向的なものであり,医療者に立ち返ってくる再帰的なものだ。医療者や援助する者を救うのも,やはりナラティヴの実践をとおしてである。
……(後略)

2006年10月末日 編者一同 江口重幸
斎藤清二
野村直樹