ヒトの「こころ」はいまだ未知

岡 昌之(東京都立大学)

 人間の全遺伝情報「ヒトゲノム」の解読の作業が完了したと報道される現代においても,ヒトの「こころ」は未知の領域であり,人として隣人および自分自身と折り合う技術のマスターキーはいまだ発見されていない。この分野においては,古代の天才であるシャカやイエスらのメタファーがなおその輝きを失っておらず,その意味でも彼らは現役を退いていないのである。
 実践の知である臨床心理学は,人間の思考と行動における自然言語とその文脈に注目する。また言語が発せられる対人空間の性質とそこでの身体感覚に関心をよせる。対人関係という最も錯綜した事態を精査する研究者に求められる資質は,葛藤への耐性であり精妙な知性である。おそらく「ヒトゲノム」以上に複雑でつかみがたい自然言語の性質を,たとえば「ヒトデナシ」や「ヒトトナリ」という卑近な日本語の含意を味わいつつ,明らかにしていくのも,今日における臨床心理学の課題であろう。